僕自身の聞法における起点の師は、藤谷秀道先生です。
その前に、出会いがなかった訳ではないのですが、藤谷先生とのご縁がなければ、再び聴聞に赴き続けていく、ということはなかったのではないかと思うのです。
まだ明らかにせねばならないことがある。
十地経という教えがある。
弥勒菩薩の不退転、初地の不退転。
八地以降は無功用となる。七地沈空の難を超えさせて下さるはたらきがある。
助からぬ身は必ず助けて下さる光明に既に照らされている。この一点を尋ねていきなさい。
まだまだあるのですが、藤谷先生から直接ご教化を頂いた方によくして頂いたことも大きな恵みでありました。
次の師は和田稠先生です。和田先生の法話の音源を拝聴した時、身の毛がさかだちました。こんな方がいらしたのかという迫力を感じました。高島秋講という滋賀県の法縁を通じて頂いたご縁でした。
終わりなき歩みが始まった、という言葉が、最初のきっかけでした。和田先生は往生の師です。
藤谷先生、和田先生はお会いしたことはなく、既にご往生を遂げられておられます。
あとのお二人の先生は、ご存命であり、この六年にかけ、多大なご教化を賜ってきました。
お二人は信心の先生、念佛の先生です。
お二人のうち、お一人の先生から大悲を聞かせて頂く機会が【みちのかい】です。
四人の先生から大きなご教化を頂き、今に至ります。
僕は、どこの宗派の門徒でもありませんし、多分これからもそうだろうと思います。まして、坊さんでもなく、ただのサラリーマンです。
聞かせて頂きたい法話があれば、どこの宗派の方であろうが、構わず伺います。
自分の助からなさの底深さを嘆くのではなく、その底深さを超える大悲が、常に念佛として寄り添って下さっている。
何度も何度でも念佛に帰る。
むなしさはなくならない。
煩悩もなくならない。
立派にもならない。
そのままである。
このまま必ず助けて下さる本願に任せて、念佛を申す。
これだけであり、他には何もありません。
ひたすら大悲を聴聞していく、それだけです。
無慚無愧というのは慚愧です。本当に照らしぬかれた方の慚愧です。
南無阿弥陀佛