摂取心光常照護というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきになりぬとしるべしとなり。(尊号真像銘文 親鸞聖人 東聖典p532)
光とは照らすもの。照らすということのはたらきは、可視化する、そこに何があるかを見せるということ。
光が照らし見せつけてくださるものは、自身の凡夫性、自己中心性、他者排除性、貪りと驕り高ぶり、怠け、慢心。これら煩悩具足という自身の有様である。この自身の現実を真宗では、助からぬ身、地獄一定と表現されてきた。
他者が助からないのではなくて、自分は決して助かるまじき者であると、徹底的に反復して教化下さり、こう仰る。そう、問題は自分なのだ。
助からぬ汝よ、我が名を称えよ。決定して我が国に往生せしめる、と。
無明と生死の永き夜がなくなるのではなくて、方向が定まる。憑むべきものがわかる。
方向は浄土、憑むべきものは如来の仰せ、
依るべきは念佛一行。
凡夫が凡夫でないものに成って助かる、即ち、自分が自分であることを受け止められるのではなくて、全く受け止められない、われに道有ること無しというところで、
本願招喚の勅命が向こうから聞こえて下さる。
そこに摂取不捨の無碍の光明にこの身このままいだかれる。
すでにあかつきになりぬとしるべしとなりとは今ここで往生せしめられていること、即ち正定聚不退の位に摂めとられているが故に必ず夜は明ける、必ず滅度に至る。この無碍光如来の御意をもって、聖人、あかつきになりぬと仰せられたと感ず。
あかつきとは、まだ薄暗くても、見えるもの、聞こえるものがある、ということ。