むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

往生

帰命無量寿如来

帰命無量寿如来(無量寿如来に帰命し) 正信念佛偈の冒頭に記されている言葉です。 僕は随分この言葉がよく分からなかったのですが、この頃は少し感じるものがあり、このところを考えてみたいと思います。 物心ついたのは、四歳の頃ですが、生まれるというこ…

《われら》ということ

この7年余り、先生方から教わってきたことを自分なりにまとめますと、 《われら》に尽きる、と考えます。 《われら》は(かれら)に対する言葉ではありません。《われら》は汝であり、《われら》の一人として《われ》が成り立ちます。 《われら》とは如来に見…

7年が過ぎました

僕が(むなしくない)というタイトルで、このブログを始めたのが2015年11月1日でした。 そこから、はや7年ですか。。 続けてこれてよかったなと思い、筆をとっています。 実は、転職して一ヶ月からブログを始めたので、今の職場に務めてからとほぼ同じ…

僕らは、現実の中に居り、生きている。 生きているというよりも、生かされているというか、それぞれの身という、居り場を与えられているのかもしれない。 いのち、は自分の所有物ではないし、この身も所有物ではない。 いのちの中に、自分を形成するはたらき…

小さなレジスタンス

最近、よく考えることがあります。 それは(一線を引く)ということであり、この意味は「明確に分ける、区別する」ということです。 ふと、思うのです。 この世には(変えられること)と(変えられないこと)がある、と。 (変えられること)とは、(自分は…

続 現実へのかかわり、柔軟心成就

以前にブログに書いたことの顛末です。 端的には、希望する人がおらず、頓挫した、という結果になりました。 力不足です。これはこれ。 大事なことは(次)はどうするか?です。 いつまでも同じところに留まれる時間はありません。 時は不可逆的ですから。 …

「伴なるわれら」と【念佛往生】

信仰は硬直してはならない、確固とすべきである。硬直した信仰は狂信的となり、確固とした信仰は寛容である。信仰の確固としていない人は硬直したドグマに両手ですがりつく。これに対して確固たる信仰をもつひとは両手は自由で、その手を他の人々にのばし、…

横截五悪趣悪趣自然閉

「横截五悪趣悪趣自然閉」といふは、「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり。竪は…

この世界に所属するということ

最近はTwitterも頻度が減ってきました。 なぜかなと思うと、ご利益によるのだと思うのです。批評家に陥りたくはない。言葉だけでなく、言葉と行を以て現実に向き合う時、問題は他者ではなくて、自身だと思うのです。 他者のことを批判できる者なのか、と。 …

歎異抄聴記⑤所行能信

われわれのとなえる念仏もまた、所行におさまり、われわれがとなえたからからといって、やはり能行ではなく、たとえ、信以後にとなえたからといって、やはり所行である。能行というわけにはいかないのである。これは真宗学としては、もっとも古い真宗学であ…

心、言、行

4月にはいり、新しい期か始まりました。 12月末から1月を迎える新年よりも、 3月末から4月に入る時のほうが、季節が春に なることと相まって、新しい年という感じが します。 最近思いますことは、準備が大事なのだなということです。 余裕をもって、事前に…

大悲の願船

しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず(東聖典p192顕浄土真実教行証文類行巻) 南無阿弥陀佛とは、大悲の願船である、と親鸞聖人は仰られている。 船とは岸から岸へ渡してくれるものである。 海を渡るのは船の…

極悪深重の衆生

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称じてぞ 浄土にむまるとのべたまう(高僧和讃) 他の文字に左訓あり、 余の善、余の菩薩の方便にては、生死出でがたしとなり。 仏の教えとは、自身に引き当てて聞けよと教えられる。衆生と言っても、具…

方便法身の大悲

今日、ZOOMの聞法会に参加させて頂いた。 研修で使ったことがあったが、プライベートかつ、聞法会では初めてだった。 感想は、改めて、その場に足を運ぶことは、それそのものに力があるのだなということだ。 先生は、悩んでおられた。どうすれば毎年継続して…

摂取心光常照護

摂取心光常照護というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきになりぬとしるべしとなり。(尊号真像銘文 親鸞聖人 東聖典p532) 光とは照らすもの。照らすということのはた…

身につける

曽我量深先生の言葉、 往生は心にあり、成仏は身にある、と。 身とは、今この身であるし、土でもある。 自分はこの土に属している訳で、自分と 無関係に土がある訳ではない。 僕は思うのです。悲しく、辛い生存は この一期で終わりにしたい、と。 もう差別、…

信の深まり

自分がいよいよ助からない存在、 どうにもならないものであること、 人間の身をまとってしまっていること、 これらが明らかになること以外に特別な ことがあるわけでもない。 伝統的には機の深信であります。 決して助からぬ身を必ず助けて下さるのが 本願で…

不退の位

摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしませ候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり(ご消息集 親鸞聖人 p590大谷派聖典) 助かるとは、どういうことか。 実は助かる…

追記あり 仏法の血肉化

現実化しない仏法など空想に等しい。汗になり、眼差しになり、涙になり、苦悩にまでなるのが仏法でしょう。僕はそう思う。だから試行錯誤する(2020.4.6ツイート) この文をtwitterの固定文にしています。 ↑この投稿をした時のものなので、変わっている、元…

摂取不捨の大悲

如来の大悲によって、 無上の信心が発起せしめられる。 その信心が人を人と育てて下さる。 如来が一切の衆生を必ず摂取下さる故に、 自分は自分の分限に励む。 誠に仰ぐべきは如来の大悲。 誠に深きは如来の大悲。 誠にあたたかきは如来の大悲。 誠に透徹た…

良い天気だ

空は青く、澄んでいる。 桜を愛でたいが、浮かれてもいられない。 時節到来、収束の目処が立つまで、 仕事の区切りがつくまで、弛むことは できない。 聞法会も中止。だが、念佛は人も時も場所も 選ばない。今、ここに不急のことだらけの 自分に南無阿弥陀佛…

専修念佛

如来の勧め。無量寿佛の御名をたもて。 これを相続させて頂くより外にいずれも 道なし。念佛が導き、育ててくださる。 汝、この道を行け。我能く汝を護らん。 この言葉を聞き、決定してこの道を行く。 特別な心境はなく、ただこの大悲の一声、 一声を聞くば…

諦めない者

決して諦めない者を法蔵菩薩という。 彼が不退転であり、自分は退転する者。 彼が不退転であれば、何も問題ない。 今往生の中にあり、 故に必ず往生は遂げられる。 必至滅度。この身が滅ぶ。 南無阿弥陀佛

追記あり 目指すべき道がある

無上正真道。 念佛往生の道。 わが名を称えよの仰せに帰す。 世間は乱れていて、収束はまだ見えない。 しかし、各国の善良な人々が知恵と力を 合わせ、懸命に働いて下さっている。 ならば、自分も自分の場所で、 力を尽くそうではないか。役に立つか、 立た…

一途に大悲を聞く

お西、お東、仏光寺派、高田派、興正寺派。浄土真宗には色々な宗派がありますが、個人的には、何派だろうが、関係なくて、大悲を説いて下さる方であれば、足を運ぶのであります。たとえ他宗の方でも構わない。ある先生から聞かなければ信心は起こらないとか…

教行信証

春が来れば桜が咲く。桜は冬の間も根を静かに張っている。 淡々と、静かに。着々と、確実に。 根を張り続ければ、自ずから時が来れば、花は咲く。咲かそうと意図しなくても咲く。 だから、すべきことは原点、基礎、基本を反復して身につけ、現実に教えを体現…

往生の中に今在る

往生は生活である。往生は我等の精神生活である。(親鸞の大地 津曲淳三p21)曽我量深先生の言葉を考える。この残りの人生は何の意味があるのか。どうして信心決定の一念で、この身を滅ぼして下さらなかったのか。生存にどういう意義を見い出せばいいのか。…