むなしさとともに

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大乗の魂「観」

考え続けるのは流転だ。

 

考えをやめるのは流転を一服したことです。だから、煩悩だろうが悪業だろうが、全て世間というものを倫理的に反省して、つまらんとかなんとかいって、腹を立てたり自己嫌悪したり神経質にならずに、よく見なさいと。

 

よく見れば、すべて固定したものは一つもないんですわ。無明や業が条件となって世間がある。無明・煩悩・業がなければ世間はないですね。無明や煩悩や業がなくても世間はあるというのは、考えたこと。人間は考えたことに縛られる。

 

だから考え続けてもあかんわね。ただ複雑になるだけです。

 

(安田理深先生、大乗の魂、大地の会、p66)

 

ただ複雑になる、という言葉にそうだなぁと感じました。

 

煩瑣になる、枝葉や表層に終始している。日常よく見る光景だからです。

 

細かで、些末なことに囚われて議論が進まない。

 

 

根本を捕らえ、根本を根絶する、根本を断つ。

 

正直、枝葉はどっちでもいいのです。木を枯らすには根を絶たなければならない。根は無明ということであります。智慧は根を断ち切って下さるものです。

 

 

また、凡夫という言葉の実際の意味は有限である者だろうと思います。

 

つまり、やれることにも限りがあり、言葉にも限りがあり、ということは、言葉に依存する限り自分の思考にも限界があるということです。

 

つまり、考え続けてきた内容を観れば、結局、流転、同じところを経巡り続けてきたではないか、と教えられることがあると思うのです。

 

いのち終わるまで煩悩から逃れることは決してないのだよ、と親鸞という方は教えて下さいました。ただ、煩悩具足の衆生が自分の力で自身は煩悩具足であると知ることはできないのです。

 

衆生に浄土の光、すなわち智慧が届いているからこそ、観える、教えられるのであって、世間を照らす出世間の法がおはたらきになっている。

 

すなわち南無阿弥陀佛、智慧の念佛であり、信心の智慧のおはたらきであります。

 

大乗の魂は次が最後になると思います。

 

以降は気の向くままに生活を徹して念佛の信心を訪ねていければと思います。

 

 

 

南無阿弥陀