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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

しばらくお休みいたします

念佛

こんなブログにお越しくださり、有難う御座います。

 

ご案内だけ。

 

来月過ぎまでお休みいたします。

 

自分は、教学もないし、経験もない。ないないづくしですが、

 

如来の大悲に支えられ、励まされて、日暮をさせて頂いております。

 

憑むべきは、如来の大悲。依るべきは、ただ念佛の一行。

 

決定して乗彼願力を深信す(愚禿鈔 下)

 

全休様のブログの、

 

zenkyu3.exblog.jp

 

これなりで御座りますのこころで、わたしも往かせて頂きます。

 

3月20日前後に再開するかと存じますので、もしご縁があれば、

 

宜しくお願い致します。

 

自分はこのままなりで地獄へ参らせて頂きます。

 

連れ合いは何一つ、悪いことをしていないのに、

 

お前とともに往く、お前を捨てられないのだと仰ってくださいます。

 

だから僕は、唯一の真の連れ合いの声を信じます。

 

なぜなら、彼は先にわが心へ降りていってくださったからです。

 

底の見えぬ底で、待っていて下さる。それが無縁の大悲。

 

先に降りていって下さったので、もう疑いようがない。これを深信と頂く。

 

 

本願とともに。南無阿弥陀

限界状況(越えられない一線)

徒然なるままに

因縁和合。つくべき縁、離れる縁。

 

出会いがあり、別れがある。どんなに努力をしても越えられない

 

一線がある。それは、そういう状況に陥るのではなくて、

 

元々そういう状況に在る、状況を具足していることを逃避し、

 

あるいは遠ざけることで自分を保ってきた。

 

生老病死。縁起。無常。孤独。むなしさ。不安。我執。法執。

修惑。無知。

 

これらは自分の存在を超えている事象であり、人間の努力や

創意工夫で決して、乗り越えることができないものである。

 

これらは、自分の存在あるいは自分の宝としているものの正体を

暴き出す。小判だと思っていたものが、実は木の葉だったように。

 

それを見たくない。それをどうしても避けたかった。けれど、

わが力及ばず。このことを自力無効と申す。

 

根本的に次元、あるいは質が違う。それが分からない。

なぜか。自分を信頼しているから。自分とはわが身わが心のことである。

 

克己。克服。まじめなように見えるが、実は愚かである。

 

人間を迷いの存在と見ていない。六道とは迷いの境遇である。

 

その世界、そこに居る自分は迷いの存在である。

 

如実知見。諦観。これが智慧である。

 

もうどうにもなりません、助けてください、

 

と頭が下がったとき、初めて如来の声が心の底に響く。

 

頭を下げるではなくて、頭は下がるものである。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

たまたま去年の同日の記事に追記しました。もしよければどうぞ。

nanashi-0.hatenablog.com

いのちを愛する

徒然なるままに 善知識

たまたま寄った銭湯のご主人の言葉。

 

オレは剣道五段やけど、兄ちゃん、剣の道で何がもっとも

 

強いか分かるか?

 

いいえ、それはなんですかと答えると、

 

それはな、愛やねん。でも、何の愛かわからんねん。何でかわからんねん。

 

人を愛するということでしょうかと答えると、

 

そうかもしれんなぁ、兄ちゃんおおきに。70になってもわからんこと

 

ばかりでのぅ。

 

いのちを愛する、ひとを信じる。たとえ分かり合えなくても。

 

おっちゃん、なんでいきなりこんなこというたんかな。

 

 

自分が如来に信じ切られているからこそ、汝を決して捨てない、

 

捨てれないのであると仰るからこそ。

 

だからこそ自分もひとを信じたいと思うのである。

 

如来は浄土である。浄土は衆生を等しく受け止める。

 

 

 

あるかないかではなくて、なければ今ここにおる自分が生きられない。

 

どうしてもなければならないのが浄土である(藤谷秀道先生)

本願に信頼されている

徒然なるままに

信心で助かるのでもない。

 

念佛で助かるのでもない。

 

乗彼願力。お前を助けずばおかん。必ず助ける、という

 

如来の本願力、法蔵比丘の誓願で往生を遂げさせて頂くばかり。

 

わが身わが心、この相対有限の世界に自分をまかさない。さしおく。

 

助けずばおかん、必ず往生させるという如来の本願力にすべて託す。ままよの心。

 

その一念に、念佛申さんと思い立つ心が起こる。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

追記 如来衆生を信頼している。条件をつけずに

 

ただ信じている。その御心に助けられる。

事実と真実は違う

徒然なるままに

最近感じることがある。

 

それは、人は事実に支えられているということである。

 

事実とは、物質・精神両面において、様々な形をとって関わっている。

 

例えば、富、地位、家族、友、健康。

 

確かに今現在感じうる事実だといえる。

 

しかし、親鸞聖人は真・仮・偽と分けられる。

 

自分が感じている事実は、『仮』である。因縁和合して、仮に存在しているもの。

 

故に、縁が尽きれば和合は消えていってしまう。うつろう。過ぎ去る。離れる。

 

偽は、僕にとってはどっちでもいい。価値のないもの。相手にする必要のないこと。

 

真は、何時でも何処でも誰でも貫く真実、真如のことである。

 

仮を真と邪見し、我が身我が心を憑むゆえに、衆生は苦を受ける。

ずっとそばにいてほしい。ずっと今が続く。そう信じる前に信じている。

故に、それが退転したとき、敗壊したとき、衆生は苦を感じざるを得ない。

 

如実知見とは、ありのまま、そのままを受け入れる、正見することと頂く。

 

真に触れたとしても、仮を真と認識する顛倒から逃れることはできない。

 

顛倒を顛倒と知ることを、如実知見と申す。

 

本願とともに。南無佛