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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

持たないと持てないは違う

浄土真宗 徒然なるままに 念佛

あるか、ないか。

 

損か、得か。

 

好きか、嫌いか。

 

分別心には、二つしかない。二つしかないという事は堅いということ。

柔軟、寛容が欠落している。

 

自分の思いにそぐわないこと一切を許せないということ。

これが分別心、我執の心である。

 

残念ながら、世界は平等ではない。必ず偏頗がある。

 

持つ者、持たざる者。貧富。賢愚。

 

しかし、持たざる者の中には、それを選択して持たざる者と、

どうしても持てない者が存在している。

 

分別心では、後者、どうしても持てない者を認めることができない。

 

そして、自分自身がどうしても持てない、達成できない、

役に立てない、そういう者であることを容認、受け止める、受け入れることが

できない。

 

自分自身を最も差別し、軽蔑しているのは、誰でもない。自分の心だった。

 

孤独は外にあるのではなく、自分の心の中にのみある。

 

分別心はわが身の体質であり、これから逃れることができない。

 

如来のはたらきは、これをまかせよ、と仰り、

 

その自分から汝を助ける、と仰っている。

 

助けるとは、一体、何から助けると仰るのか。

 

何が最も自分自身を苦しめているのか?どこかに誰かがいて、それが原因なのか?

 

一つ一つ、確かめなければならないと思う。

 

自分が頂く真宗の教えとは、どうにもならない自分自身を、そのままじゃ、

 

我が名を称えよ、と仰っていて、それに頷き、ただ念佛する、ここに

 

如来の本願が成就すると体解している。

 

本当にたすけてくれと呼ぶのは、本当に、何ひとつ、間に合わないときに

 

初めて呼ぶ。そういうものだと思う。

 

本当に呼んでいるのか?念佛を利用しているだけではないか?

 

自身が問われてくる、そういうものが真の宗教だと思う。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。

決定的な出遇い

浄土真宗 念佛 徒然なるままに むなしさ

あの人に出会わなければ、今の自分はなかった。

 

あの出遇いのおかげで、今がある。

 

人と出会うのは不思議なことだ。

 

出会おうとして、出会えるのではなく、たまたま出遇う。

 

声が聞こえた。

 

本当に決定的な出遇いが、人間には起こる。

 

生死流転を六道輪廻ともいう。

 

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。

 

これら六道の世界を迷い続ける。

死んでからのことではなく、生きている今もこの相がある。

 

しかし、人間である間でしか、仏法を聞くことはできない。

 

心が三悪道に堕ちているときは、決して聞くことができない。

苦しすぎるから。聞けない。

 

悲しみの底、本当の孤独において、弥陀如来の悲心招喚が聞こえる。

 

悲しみを、決して、悲しみのままで終わらせない。

 

汝の願いを成就させる。汝の願いと我の願いはひとつなり。

 

汝を必ず助ける。我が名を称えよ。

 

大悲はひとりひとりをみそなわし、喚び続けている。

 

決して諦めない。

 

そして、その人に出遇いが成就する。そのときを信の一念という。

 

真実に触れるのは、一念一刹那。握ってはいけない。執着してはいけない。

 

信の一念において、

凡夫が本当に凡夫になる。そして、如来をいつも忘れてもいい。

 

念佛のたびに、信の一念に立ち返る。

信心相続の相は、永久永続ではなく、連続無窮であると体解する。

 

何度でも、何度でも、いつでも、いつまでも、どこまでも続いていく。

これを摂取不捨と頂く。

 

それが如来の憶念の心。憶念の心が本願であり、選択本願の念佛、

本願の名号である。

 

そして、本願の名号は正定の業。

わたしの浄土往生は本願の名号が決する。

 

我が名を称えよの仰せをそのまま耳で聞いて、口でただ念佛す。

 

本願はいちにんいちにんの宿業の身において成就する。

そして、それは今、ここに存在するわたしを場として如来と出遇う。

そういう命をひとりひとりは生きている。

 

平等は凡夫という自覚において初めて実現する。

 

むなしさは心の悲鳴である。

 

このままでよいのか?わが身、わが心を問う本当の自己の声である。

 

その声に耳を傾けなければならない。往生はひとりひとりのしのぎである。

 

しかし、答えはいつもすぐそばにある。

 

専らお念佛の声を、お念佛のいわれを、

法蔵比丘の血肉を聞くしかない。自力は捨てるのではなく、廃るものだから。

 

本願とともに。なむあみだぶつ

 

 

笑っていますか?

浄土真宗 徒然なるままに むなしさ こころ

心の栄養は足りていますか?

 

心の栄養とは、感動であり、驚きであり、感謝であり、笑うことだと思います。

 

この身は、常に代謝を繰り返しており、様々な栄養を摂取しなければ、

 

維持することができません。たんぱく質、糖分、カルシウムetc

 

栄養が足りなければ、栄養失調となり、やがて病となります。

若いときはまだしも、齢を重ねれば無理は利かなくなってきます。

 

では、心はどうでしょうか?

 

自分はかつて、うそでも笑うことができなくなりました。

顔がひきつってしまって。

 

あぁ、もうダメだと思いました。

 

現代は、失敗や挫折を許さない社会です。立ち止まることを許さない。

他人にはもちろん、自分にさえも。

 

でも、生きている、生きるということは、失敗と挫折を繰り返す日々です。

 

いつしか、挑戦することを恐れ、現状を守ることを目的とする。

 

そして、元気がなくなる。何もかも嫌になる。無気力になり、むなしさを抱える。

 

仏法とは『除苦悩法』である、と観無量寿経に説かれています。

 

そして、念佛、如来に出遇うということは、常に心の栄養を頂く、

 

感動、驚嘆、感謝、そして悲嘆でさえも、包み込む大悲であります。

 

もしも、作り笑いさえもできなくなったのであれば、立ち止まるべきです。

 

勇気が必要だと思います。現実的な縛りもあります。お金も必要です。

 

でも、壊れる前に、立ち止まる勇気を持つべきです。

 

無責任なことしか言えませんが、僕はすべてを捨てて、立ち止まりました。

 

幸い、不思議なご縁で、如来に出遇い、もう一度、歩みはじめました。

 

本当に弱く、頼りない歩みでありますが、僕は僕の歩みを、

 

ひとりひとりが、唯一の歩みを如来とともに歩んでほしい。

 

身の栄養も大事ですが、それ以上に、精神の栄養は重要です。

 

どうぞお念佛申して下さい。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。