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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

有限存在

念佛

諦かに観る。

 

雲を雲と観る。犬を犬と観る。ひとをひとと観る。

 

そのまま観る。目をそらさない。ごまかさない。そのまま凝視する。

 

自分には、決して越える事のできない『一線』がある。

この『一線』は次元が違う。道理、法則というものである。

 

諸行無常。盛者必衰。無常敗壊。生まれたものは必ず死んでしまう。

 

愛する者と必ず別れなければならない。

わが身に関わる一切のものと本当に分かり合うことがない、

あるいは、その事実が、自分を支える『大地』とならない。

 

なぜなら、われらが事実と思う事実は、移ろいゆくものである、という

のが事実である。つまり、移ろう、変化する事実である。

如来は、これを仮和合と仰る。縁が離れれば、その事実が崩れてしまう。

 

これを敗壊とか、退転という。

 

 

分かり合えると思うのは、そう思える状況の時に、自分が思っているだけである。

根拠はない。ただ思っている。それだけである。

決定的に孤独であり、ひとりである、と尊敬する先生はいつも仰る。

 

このことをヤスパースは「限界状況」と言っている。

このことから、目をそらしたり、何かで埋めようとしたり、逃れようと、

忘れようとして、われらは日暮をしている。

 

しかし、この『一線』、『限界状況』は必ずいちにんに衝突する。

 

決して逃れることができない。そして、誰も代わることができない。

 

『厳粛ないちにん』の問題である。

 

われらにできることには、限りがある。われらは有限である。

それは認めようが認めまいが、事実はそうである。できることに限りがある。

 

聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。

しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。

 

(中略)

 

今生に、いかに、いとをし、不便とおもふとも、存知のごとく

たすけがたければ、この慈悲始終なし。

 

しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にて

さふらふべきと、云々(歎異抄第四条)

 

如来の本願念佛のみぞ、まことにておわします。

すえとおりたる大慈悲心。

我が名を称えるばかりで、必ず助ける。この仰せにひしとすがる。

 

そのとき、聞其名号、聞こえるはずだ。如来の声が。

 

声は如来の心。念と声はひとつである、と親鸞聖人は仰っている。

 

念佛はそのまま本願である。一声の念佛は、如来の血と涙である。

 

わが身わが心を当てにしない。専ら念佛を聞く。自分を見限ったとき、

 

初めて如来に出遇う。

 

南無阿弥陀

智慧

念佛

どの人も一生懸命生きている。

 

その人がこれで「よい」と思う方向に向かって生きている。

 

それが、何一つ成就しない。敗壊、退転する。

 

どういうことだろう?

 

僕はよく道に迷う。

 

なぜ迷うか?それは、目的地に対して、進むべき方向がどっちか分からないこと、

 

そして、今自分がいる場所がどこかが明確でない。主にこの2つで迷う。

 

人は方向を知らない。だから迷うようにできている。これを無明という。

 

無明に対して、如来は智慧である。智慧とは光明である。

 

向かうべき方向を示し、そこに至る方便をつけてくださっている。

 

仏からの道。

 

念佛往生の道。

 

この道は必ず無量光明土へ至るとよき人は仰る。

 

だから、よき人の仰せをそのまま頂いて、その通り

 

念佛を申し、耳に聞く。

 

方向と自己存在の立ち居地を明確に知る者を覚者、如来という。

 

如来は教法として、道を示してくださる。教法は生きていて、躍動している。

 

血が通っており、今もずっと生きているし、これからも生き続けていく。

 

道は『知っている人』に聞けばよい。『詳しい方』に聞けばよい。

 

ただそれだけである。

 

『分からない人』に聞いても、ただ迷うだけである。分からない人を『凡夫』という。

 

だから、それらをさしおく。それらは、自分が正しいという思いを握って、

 

決して手放そうとしない。地獄の巣は自分が正しいという邪見である。

 

だから衝突が絶えない。だって、両方とも正しいと思っているのだから。

毎日暮らしていて、よく思うことである。

 

故に凡夫ではなく、専ら覚者の仰せを聞く。仰せを聞けば、

 

仰せの通りに至る。佛因佛果。

 

南無阿弥陀

人間

徒然なるままに にんげん

人間とは、久遠の歴史を背負って生まれてきた者である。

 

損や得や善悪、そんなもので計れるほど、軽い者ではない。

 

甚だ重い久遠の過去、そして、光明と共に歩む可能性を孕んだ者の

 

ことを云うのだと思う。

 

あなたは一体何だ?僕は人間でありたい、と思う。

 

南無阿弥陀

仏語に従う(唯信仏語決定依行)

念佛

唯信仏語 決定依行(愚禿鈔 下巻)

 

自分が何者であるか、何をすべきか、何をしに生まれてきたか?

 

何のために生きているのか?何がわかるのか?

 

何一つ分からない者よ、我が名を称えよ、と如来は仰る。

 

釈迦如来も『汝よくこの語をたもて。無量寿仏の御名をたもて』と仰る。

 

洹沙の諸仏方も仰る。『我らが念佛を証しする。汝はひたすら念佛を申せ』と。

 

ただ仏語を信じ、決定して行に依る。

 

これが念佛往生、選択本願念佛の道。この道をひたすら往く。

 

この道は如来からの道。必ず往生は遂げられるとよき人は仰る。

助かるか助からぬかはしらない。ただ念佛を聞く。それだけでよい。

 

南無阿弥陀

悲しみ歎き

浄土真宗

悲しいなと感じることが多い。

 

自分は、そのものを見ることができない。

 

うわべもほとんど分からない。況やそのものをや。

 

自分の判断基準をもって、その人をその存在を区別し、価値づける。

 

それが決して止まない。動きどおしである。

 

そして、欲。湧いてくる欲と衝動。抑えることができない。

 

渇愛というのだろうか。

 

自分が、罪の意識なんていっても、それは僕が分かる感じる範囲の話で

あって、全く意味を成さない。

 

もっと深く、ずっと引きずってきたものがある。だから、

生まれてしまった。

 

生まれる、ということは迷いの存在が生起するということであって、

本来おめでたい、といえるようなことではない、と個人的には思う。

 

生きるということは、それほど重いことだと思う。いのちを奪う。

奪うの後ろには、奪われたものがある。必ず。そのことを忘れる。

 

極重の悪人とはかかるものをいうのであろう。それは誰でもない。

自分自身である。そして、その深さは全く検討がつかない。

 

せめて、ひとを観る努力をしようと思う。せめて。存在として

 

見る努力をしようと思う。たとえできなくても。それが抗う精神だと思うから。

 

ただ、悲しみが痛い。分別が痛い。存在していることが痛い。

 

南無阿弥陀