読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

たすけてといえばいい

念佛

無縁社会という本を読んだ。

孤独死。老病死。

 

人間には、どうしても超えられない一線がある。

 

ヤスパースは『限界状況』という言葉で表現している。

 

それに対峙したとき、如何に自分が無力であったか、思い上がっていたか、

それらが初めて明らかになる。

 

経済的な格差。勝ち組、負け組。帰る場所がない。

受け止めてくれるものがどこにもない。誰も居ない。

 

どうにもならないなら、たすけてくれといえばいい。

 

一心に弥陀をたのむこともできない身であれば、ただ彼の名を

称えばいい。無量寿佛の御名を称えよ。

 

如来の仰せはただ一つ。我が名を称えるばかりで、たすける。

 

必ず浄土へ往生させる。往生とは始まりと遂げられるときがある。

 

称我名号 下至十声の大悲をそのままいただけばいい。

 

本願とともに。南無阿弥陀

度衆生心(仲良くしたいと思う心)

徒然なるままに

お経を読んでいます。

 

浄土三部経ではありません。雑行だと言われるかもしれませんが、

 

別に構いません。そういうことを気にする必要はもうありません。そのままです。

 

そのお経に嫌と云うほど出てくるのが『衆生のために』という言葉。

 

三帰依文でも出てくる。『もろもろの衆生とともに』

 

自分はある意味、今生では諦めていることがあります。

 

決して他人とわかりあうことはできない、と。

自分の思いから一歩も出ることができないから、分かり合ったり、

受け止めたりすることが、どうしてもできない、と。

自分さえ良かったら、それでいい、と。

 

でも一方でこうも思います。

 

今のこの心は間違っているな。独りよがりではいけないよな。

誰かの役に立ちたい。本当にお互いを尊重し、理解しあいたい。

 

簡単にいえば、みんなと仲良くしたい、ということのように思います。

 

今まで、自分は煩悩を無視してきました。さしおいて、そのまま念佛を申す、と。

 

どうも違います。

 

煩悩を無視するということは、己を無視することのように思います。

 

だから、煩悩を直視して、ただ念佛を申す。

煩悩があるまま、起こるまま、ただ念佛を申す。

 

これが本当に煩悩を超えるということのように思います。

 

無視ではなく、受け止める。その心を変えることなく、

さしおくことなく、そのままの心で、ただ念佛を申す。

佛名を聞く。

 

煩悩も衆生かもしれません。

目の前の人は、過去世で兄弟だったかもしれません。

目の前の魚は、未来世で親かもしれません。

 

懐かしいなと思うのです。とてもとても。

うーん、一体どんな縁があったのだろうなと。電車で隣に座る人、

たとえ一言も声を掛けない人であっても、まして毎日顔を合わす人は況やです。

 

衆生心とは、本当にこの人を受け止めてあげられない、と云う心でも

あるし、何とかして力になりたい、と思う心でもあると思います。

 

非力な自分ではありますが、有縁の方とともに、念佛往生の心を

どこまでも尋ねていきたいと思うのです。

 

本願とともに。南無阿弥陀

むなしさを信頼する

徒然なるままに むなしさ

無縁の大悲。摂取不捨。

この言葉の出所を聞く。この出所を本願といい、南無阿弥陀佛という。

 

表面ではなく、言葉の本質、言葉の響き、いのちが形をとった言葉、

言葉となってまではたらくいのち。

それを聞くのだ、と。和田先生の『常没の凡愚』を聞かせて

頂いて改めて思うことである。

 

いのちの要求。それは僕にとっては『むなしさ』であった。『むなしさ』は

お前はこれでいいのか?という問いかけであった。

 

静かではあったが、自分を貫いて要求してきた、確かないのちの声であった。

 

今は『いのち』の声に耳を傾けたいと思う。『いのち』は

共に認め合い、共に助け合い、共によろこび、共に分かち合い、

いのちの友となることを要求している。

 

そして、このことを如来はかねてご存知である。十方衆生という言葉の

でどころはいのちの要求だと思う。

 

 

そのむなしさを信頼しなさい。

 

和田先生はこう仰ったことがあると伺った。

素晴らしい言葉である。このような言葉のいのちを、いつまでも見失わずに、

いのちのともがらと共に生きていきたい。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

よろこびも悲しみも貫く

にんげん

よろこびたいが、よろこぶばかりにはならない。

 

またよろこびだけでおさえられるほど、人間は浅くない。

 

人間は深いものだ。歴史と悲哀を背負っている。

 

明けましておめでとう。幸多からんことを。

 

どうにも違和感を感じてしまう。

 

よろこびも悲しみも苦しみも孤独も、みな大事な自分自身ではないか。

 

思い通りにいくことが幸いではない。

 

佛の本願とは、どうしても自分の宿業から逃れられないもののために、

その者が自由に、笑顔になるのなら、私は総てを捧げよう。

どうか汝は汝自身を大切にするんだよ。

 

この心を法蔵比丘の願心、佛道の根本、浄土の大菩提心

 

弥陀の誓願という。その心が言葉に声に成って今ひとりひとりに響く。

 

それが南無阿弥陀佛、一声の念佛である。如来の血と脂と汗と痛み、

 

まごころが込められている。

 

もう自分だけの思いに閉じこもるわけにはいかない。

 

如何に非力であっても、如来選択の大行をともに

 

往生浄土の道をとぼとぼと歩む。

 

本願とともに。南無阿弥陀

形から心を見出す

浄土真宗

心は形をとって現われる。

 

形を通して心を見出す。

 

どれだけ心を粗末にしてきたか。どれだけ見落としてきたか。

 

心は必ず形をとって現れる。

 

形を通して心を見出す。

 

今年、自分が生活から確かめていかねばならない課題だと感じた。

 

法性法身は形をとって現れる。それが方便法身。

さらに方便法身から法性法身を見出す。

 

藤谷先生から聞いた大切な言葉。

 

この言葉を友に確かめていきたい。

 

本願とともに。南無阿弥陀