むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

光明とは智慧、照らすはたらきとおっしゃる。

 

照らすとは暗がりを浮かび上がらせるものである。

 

暗がりとは何か、自分の心の動き、現実の姿のありようのことを指す。

 

すなわち、暗がりを暗がりと指し示すものを光明という。

 

暗がりは暗がりである、というところに、智慧がはたらいておられる。

 

如来とは運動の概念である、と和田先生は仰っていた。

 

つまり、はたらきのことを如来と仰るのである。

 

南無阿弥陀

風が吹いている

風は目に見えない。

 

しかし、風は吹いている。どうやって風を認識するか?

 

身体で感じる。木々が揺れている。その相を通じて、風を知る。

 

大悲本願の風が吹いている。そこに念佛の響きがあるではないか。

 

形には必ず心がこもっている。これが本当に大切なことだと体解する。

 

南無阿弥陀

無限大悲

無限の大悲をもって、無限に世間を安慰す(勝鬘経義疏 一乗章)

 

無限の大悲に相応する。

 

相応とは彼の佛の御名を称え、聞くこと。

 

称えさせ、聞かしめて、往生させ、成仏せしめるはたらきを

 

如来の本願力といい、このおはたらきを他力という。

 

自分が凡夫であるということが正しく確定した。不動である。

 

故にそれを大悲したまう如来の本願をお建て下さった。

 

その如来大悲の御声を南無阿弥陀佛という。

 

私から言えば、如来全託の意であり、

法から言えば、それが、そのまま、

我が名を称えてくれと仰るお言葉であった。

 

自分に名を称えさせるためだけに、たったこれだけのことを

成さんがために、無限大悲を起こしてくださった。

 

如来の先手、全く如来のひとりばたらきである。

 

心は必ず形の相をとる。心を頂けば、形がまことになっていく。

(藤谷秀道師のおこころ)

*これは仏法だけではなく、生活でもすべてそうであります。

 仏法と生活を決して切り離してはいけない。生活を通じて、

 仏法を確かめるのであります。これが鍵であります。

 

本当にかたじけなく、また、真宗に遇わせて頂いて、

本当に有難く思います。

 

ご覧になった方が、たった一人でもいい。お念佛に出遇い、

自分を取り戻しますように。

 

念佛は形であり、形から心が届く。

心が届けば、形は誠に仕上げられていく。

どこまでも、どこまでも。

 

南無阿弥陀

一寸お休みします

別に書くこともないのですが、ちょっと休みたいと思います。

 

何となく、ちょっと疲れたのです。だから立ち止まります。

 

 

でも、一週間も経たないうちに、また書いているかもしれませんし、

書かないかもしれませんし、それはよく分かりません。

 

僕は適当ですから。

 

でも、物思いに耽るというか、静かに確かめてみたいと思います。

 

では、また。いつもこんなしょうもないところに来てくださって、

 

有難うございます。

 

 

やっぱり適当でしたね。いや、如来のおはたらきは

むなしさをむなしさのまま貫くのであります。

 

如来とは運動の概念である(和田先生)

 

 

 

 

むなしさから逃げない

むなしい、という感情は静かだが、執拗に流れてくるもので、

 

何の意味があるのか?ということを突きつけてくる。

 

そして、それに負けて中々行動、実行することができない。

 

それは、昔も今も同じなわけで。

 

たとえ如来に出遇ったとしても、それは決してなくならない。

何度でも出てくる。

 

しかし、本当は問題ではない。けれども、やっぱり身と心があるので、

むなしさにのまれそうになる。たとえ本当は幻であるとしても。

 

むなしさは、なくなりもしないし、逃げることもできない。

どうすればいいのだろう。

 

実相を観察する、如実知見。止観。凝視する。目を逸らさない。

おそらく、これしかないのだろう。

 

『むなしさとともに』とはいっても、中々本当に難しい。

むなしさの根源は無明であっても、現実の身を生きるものとしては、

ニヒリズムは、とても厄介である。

 

この身この心のままお念佛を申す。

諸佛善知識、先達の教えを拝読する。

 

静かに、目を逸らさずに、むなしさを見つめたい。

この先に何があるのだろう。

 

南無阿弥陀