むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

金剛心は如来の心

逆らわずに、素直に任せるは、随順の心。

 

過ちを認め、恥じるは、慙愧の心。

 

この心、わが心にあらず。これ如来がわれらがために成就し、

 

回向してくださる、如来の心。

 

この心、不壊不滅常住につき、金剛心と申す。

 

念佛の声を通して、如来の無限大悲が、われらが胸を貫き至り届く時、

 

信心の花が開く。これを佛凡一体、機法一体と仰る。

 

信心の花は散っても、憶念の種は念佛の響きとなって、絶えず響き給う。

 

わが身わが心、如何なる悪業煩悩を催しても、如来大悲の念佛が出てくださる。

 

汝を決して離さぬ、往生させる、

その如来のお心を本願力といい、そのはたらきは、摂取不捨と名づく。

 

如来は二心なく、一心であり、一心は決定心である。

 

如来に迷いがないならば、私は安心して迷って死ねる。

 

南無阿弥陀

ひたすら聞く、教えを請う

お念佛は聞きものです。称えるということは、そのまま聞くこと。

 

尊敬する先生がよく仰ることであります。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの

仰せをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二章)

 

この言葉が真実であることを、本当に伝えたい、本当に味わってほしい人に

全く伝わらない。自分の思い、すなわち無明からくる邪見驕慢の心に

縛られて、本願のお心が届かない。これが現実であり、

この現実に潰されそうになる。ニヒリズム、無力感。

 

信楽まことにときいたり、と仰るように「とき」が至らなければ、

衆生に念佛の信心は発起しない。

 

 

ならば、自分はどうするべきだろうか?

 

汝、我が名を称えよ。タスケルデタノメ。

 

やはり如来の仰せに信順ずる外に道なし。

 

自分が他人に伝えられると思っているのが、自分の現実なのだろう。

 

自分の力を過信する自力の執心は本当に根強い。

 

人の身でできることは限られている。末徹ることが一つもできない。

相手を受け止めることも、自分の身を捨ててでも念佛申させることも

できない。

 

だから、今は専ら念佛の心を聞く。教えを渇望する。自信教人信とは

仰られるが、自分には自信しかない。

 

自分が専ら念佛を聞く、この一行をたもって、力なくして娑婆の縁尽きるとき、

 

本当の自由と平等が実現する。それを二十二願で誓っておられる。

 

果たし遂げずば、正覚を取らじとまで仰ってくださった。

 

そして、今この自分とともにまします如来を信じ、念佛を申す。

 

他人は知らない。言うならば何とでも言え。専ら如来の教えを聞く。

 

人間の分限、身の程を知れば、自然と如来に頭が下がる。

 

我らは限りある身を生きている。一切のものとのつながりの中で

いのちをたもっている。それが自分である。固定普遍的な自己などない。

 

そのことに醒めることを信心という。それは如来の仰せをそのまま

 

聞いていることである。

 

そのままとは、如来の仕事に手を出さぬこと。清沢先生のお言葉だったろうか。

 

如来の土俵は訳の分からぬ我が身我が心、すなわち宿業である。

 

如来は自らがはたらく場を求めている。

場とは機であり、場所がなければはたらきようがない。

 

 

南無阿弥陀

 

 

即とはそのまま、ということだと思う。

 

八地以上の菩薩はこの境地を実現するという。

 

聖徳太子、あるいは華厳経、十地経の教えから伺うに、

 

七地と八地の間にも断絶があるらしい。

 

藤谷先生はよくお話や書物の中で、七地沈空の難ということを

仰っている。

 

自分は浄土の三部経のお心を尋ねるために、多角的に、

色々なお経を頂くべきだと思っている。

 

もちろん素人がお経の文字の語彙や意味を正確に読み取ることは

できない。そういうことをするつもりもない。

 

何をせねばならないかというと、その言葉を通して、如来

お心に耳を傾けるということである。

 

実相を止観する、ということかどうか分からないけれども、

形を通してお心を頂戴する、方便法身から法性法身を出だす、

出だすということは、無限の大悲を頂戴するという事だと思う。

 

誰がための本願か、誰がための念佛か。

 

親鸞聖人は親鸞いちにんがためなりけり、と仰った。

 

親鸞聖人いちにんがため、はいちいちの衆生、わたしいちにんがために

ご苦労をかけましたなぁということ。

 

その無限の大悲の喚び声を南無阿弥陀佛という、と聞いている。

 

この一声がタスケルタスケルの仰せ。

助からぬ汝を必ず我が国に往生させる、の如来の仰せ。

 

この一声を聞く。

 

唯信佛語 決定依行(愚禿鈔)のお言葉を繰り返し巻き返し反芻している。

 

念佛を聞く、聞名の行のほかに、真にすべきことなし。専ら大行を聞く。

浄土の教え

もしも自分に世間との違いがあるとすれば、

それは念佛ひとつで事足りるということだと思う。

 

世間のことに埋没したい、うまくやりたいという思いは

今も頭を離れない。

 

けれども、それは本当に大事なことではないと

薄々気がつきつつあって。

 

それはきっと誰とも分かり合えないことだけれども、

だからといって簡単に諦めることはできない。

 

もしも自分が往生を遂げさせて頂くということが

あるのであれば、それは有縁無縁を問わず、一切の

いのちのともがらが本当に自由と平等を実現したあとで

なければならないと思う。

 

やはり自分だけが助かるとか救われたとか、そんなことを

いって、それを握ってそうではない人と自分を分けるようなことを

如来は望んでおられないと思う。

 

それに寂しいじゃないかと思う。

 

悲しみの果てた世界。浄土とは真に自由と平等と愛が実現した境界だと

思う。戦争、差別、衝突、貴賎、美醜、賢愚。そういうことを貫いて、

必ず成し遂げんという如来の覚悟を本願という。

 

その本願が具体化し、現実化し、この耳に聞こえるまでの形を

摂られた、それを念佛という。南無阿弥陀佛という。

 

それは助からぬ汝を必ず助けるの仰せ。勅命。

 

本当に大切なことはいったいなんだろうか?

 

別に良いとか悪いとかそんなことをいうつもりもないし、

そういう問題はもう用事がないのである。

 

ただ真実や誠というものがあるとすれば、それは人を選ばず、

場所を選ばず、時を選ばず、一切を貫くものでなければならないと

思う。機に相応する法、それが浄土の教え。

本願念佛の教えであると法然聖人のお言葉から教えて頂いた。

 

故郷に帰り、懐かしさを感じつつも、

やはり念佛の声が聞こえぬことが何よりもやり切れない。

 

分かり合えないもどかしさややりきれなさが去来して、

また過ぎていく。

 

人が人であることを忘れているのではないだろうか。

 

人は人を見出すことで自らも人になるのではないだろうか。

 

本当に大切なことはなんだろうか。

 

 

 

 

佛名をたもて

親鸞聖人の仰せは、ただ佛名をたもて、これだけ。

 

自分の心に尋ねるのではなくて、親鸞聖人に尋ねればいい。

 

釈迦如来七高僧親鸞聖人、蓮如上人、有縁の先生。

 

一貫して仰るのは、佛名をたもて。

 

これ以外に諸佛善智識が仰るべきことはない。

 

自分も本当に言いたいことはこれだけ。

 

されど云える時節に到来している者ははなはだ少ない。

 

真宗遇い難し、真宗聞き難しいうことか。

 

南無阿弥陀