むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

かけがえのない存在

人が死ぬ、ということはどういうことだろうと考えた。

 

存在が空白になってしまう。

 

その空白は、決して他の誰かや何かでは埋まらない。

 

その存在しか埋められない。

 

しかし、その存在がいなくなってしまう。

 

そして、それは逃れ難い。悲しみ、苦しむ。

そうしている間に、自分自身歳を重ね、老い、病にかかり、死んでいく。滅ぶ。

必ず死なねばならないいのちを、今生きている。逃れることはできない。

 

一人称の死。

 

それが繰り返されていく。生死流転。この流れから出る。

 

仏法の眼目。しかし、常没である自分がそこから抜け出すことはできない。

 

故に、助けるとの如来の仰せにまかせる。

 

結局、死ぬということがわからない。

ただ言葉を捜しても、その言葉も見つからない。

そして、時が流れて、忘れていく。念佛を申す。それだけである。

 

南無阿弥陀

無碍光如来は躍動している

ずいぶん聞き違いをしていたと思う。

 

こちらが、努力、あるいは前進し如来へ至る、あるいは、

 

心身が研ぎ澄ませねばならない。

 

これは聖道門である。竪の思考方式である。

 

浄土門は、横超他力。すなわち如来の方から、どうしても如来に至れない

 

者、すなわち自分のために、どうすれば、この者を如来に仕上げられるかを

 

思案してくださった。これを五劫思惟と聞いている。

 

そして、すべてを思案し尽して下さり、それを成就するために兆載永劫という

 

苦労を重ねてくださった。

 

そして、全てを仕上げて、言葉となり、わたしの声にまで、今、此処に

 

至り届いてくださる如来まします。その一声を南無阿弥陀佛と仰る。

 

声の如来と申す。

 

衆生如来に仕上げるおはたらきはすでにご成就して下さっている。

 

それを告げ知らせるのがお念佛である。

 

あとはそのおはたらきを正しく摂受するのみ。それは聞こえる、という

 

相をとって、衆生に、わたしに無碍光として、至り届く。貫く。貫き徹す。

 

抱きとる。離さぬ。一体となる。それを信心と親鸞聖人は仰って下さる。

 

南無阿弥陀佛の太鼓は常に鳴り詰めである。

タスケル、タスケルと鳴っている。

南無阿弥陀佛と申せば、南無阿弥陀佛とこの耳に聞こえる。

聞こえているのに聞こえない。我が身と太鼓が遠いからだ。

自分のために太鼓が鳴っていると届いたならば、そこには微塵の

疑いも介在しない。ただ太鼓が鳴るばかり。

自分がどう思うとか、どう考えるとか、わが身がどうとか、

すべてを無碍光が貫いて、逃がさんぞやと無辺光が照らしぬく。

光明無量、寿命無量、不断光のお光で喚びづめ、立ちづめ、招き詰め、弥陀は焦がれて

遇いにきた、そのお姿が南無阿弥陀

 

十二光は誰が為ぞや 汝いちにんがために 真心こめて こしらえたぞや

どうぞ受け取ってくれよ、味わってくれよ、 それが法蔵比丘の御心也。

 

味わうとは、どうぞ聞いてくれ、助けさせてくれの御心である。

 

如来のお心が正しく定まっている。お前を助けるぞやと定まっている。

 

それを一心といい、決定心とい、淳心、相続心といい、不退という。

 

 

 

南無阿弥陀

助けるの仰せ

南無阿弥陀佛とは助けるの仰せ。

 

わが名を称えよ、必ず助ける。

 

たった十声なりとも念佛申すものが

 

わが浄土に往生しないならば私は佛にならない。

 

形を通して大悲を頂く。

 

真面目になれず、煩悩丸出しのままじゃぞよ。

 

如来の御声がこの一声だとは知らなんだ。

 

南無阿弥陀