むなしさとともに

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nearly zero

先日、オッペンハイマーという映画を観たのですが、その中で心に残った言葉です。

 

劇中の意味では、ある事象が起こる可能性がほぼゼロであるという意味なのですが、ポイントは(ほぼゼロである)ということです。

 

これ、ゼロではないのですね。ゼロだと言い切れない。

 

数学者や物理学者が計算し尽くして至る結論がnearly zeroな訳です。

 

つまり、人間には限界があるということ、手が及ばない領域があるということです。

 

このことを(分限)といいます。

 

どんなに頑張っても、あとは祈ることしかできないことがある。

 

祈りが起こる時とは、もはや祈らざるを得ない状況に瀕している。

 

実はいつでも僕らは祈らざるを得ない状況に瀕しており、これを限界状況という。

 

今ここに居る自分は、限界状況に在ることを痛切に感じざるを得ない時、真宗でいえば南無阿弥陀佛、如来智慧、光明、大悲、他の宗教哲学でいえば、神、真理と値遇するのではないかと思うことです。

 

nearly zeroという言葉は人間の限界を知らせてくれる言葉のように思います。

 

人間は凡夫という分限に落着することから、新たな歩みが始まり得る存在であり、このことを表現する言葉が往生だと考えます。往生とは死ぬことではない、生きている今獲るもの、始まるものです。

 

そして、真宗では、殊更に念佛往生といわれます。つまり、念佛に育てられていくということです。

 

あと一月、多忙な時間が続きますが、やり遂げるまで油断せず仕事をしたいと思います。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

帰命無量寿如来

帰命無量寿如来無量寿如来に帰命し)

 

正信念佛偈の冒頭に記されている言葉です。

 

僕は随分この言葉がよく分からなかったのですが、この頃は少し感じるものがあり、このところを考えてみたいと思います。

 

物心ついたのは、四歳の頃ですが、生まれるということは、自分で選んだことではないのです。

 

また男性として生を受けたのですが、これも身に覚えがないことです。

 

不思議なご縁で、41年あまり生きてくることができましたが、大きなはたらきの中で、座を与えられてきた、あまたの命や人々に支えられてきたと思うのです。

 

つまり、自力で生きてきたとは言えないのであります。

 

もちろん、努力してこなかったわけではないですし、今もまだ努力の途中で、何かを得たり、新しいことを身につけるためには、努力せざるを得ないし、努力しなければ機会が巡ってきた時、ものにできないとも思います。

 

ただ、この生きているということは、与えられているもののように思うのです。

 

なぜならこれも自分で造ったものではないから、です。授けられているといえるような、でも自分のものではなくて、貸与されているような、そして、正確にいえば、まだ生きているといえる状態だと思うのです。

 

何がいいたいかというと、不可分不可同不可逆のはたらきによって、今ここに居る自分、今まで生きていた自分というものは、支えられてきた、支えられている、今も支えられ続けている、ということです。

 

不可分不可同不可逆というのは、滝沢克己先生の言葉なのですが、阿弥陀佛、即ち無量寿如来のはたらきを端的な言葉で表すときに、今の自分には、この言葉がしっくり来るのです。

 

確かに、自分で生まれたいと思って、この世に出てきたのではないし、理不尽なことがなかったわけでもないし、言葉で他者を傷つけたり、多くの過ちや過失もあった。

 

もう生きられないな、どうしようかと途方にくれた夜もあった。

 

今も生存していることに対して、全面的に肯定感を持っているわけでもないし、どちらかというと、痛いし悲しい。

 

それでも、今まで不思議に自分という座を与えられてきた、自分という座を保たれてきた。

 

この座は凡夫という座であるけれども、なぜか分からないが、まだこうして生きている。

 

そして、凡夫という座を照らす光、念佛の信心にまでなって、自分を支えて下さっている。

 

正確にいえば、無量寿如来の光明はあまねく三世十方の衆生を一切平等に行き渡っている。だから、在ることができる。

 

僕らは無量寿如来のはたらきの中に居ながら、支えられながら、そのことを迷失している。

 

これを流転という。

 

なぜ見失っているかは分からないが、ずっと見失っており、無明といい、知るべきことを知らずに存在している。

 

この僕らの先天的な迷い、無明を破るためにはどうすればよいかを仏様のほうが思案下さった、これを五劫思惟という。

 

そして、自分は一切衆生において、名となり声となってはたらき、わが浄土に往生せしめようと誓って下さった。

 

無量寿経には、我至成仏道名声超十方とあり、正信念佛偈には、重誓名声聞十方とそのことが示されている。

 

阿弥陀佛は名となり、声とまで成って僕らに気づかせようとしている。

 

あなたは仏となるべき者なのだよ、と。

 

真宗の特徴は、この名声という大悲の方便が在すことだと思う。

 

この名声を南無阿弥陀佛といい、念佛という。

 

念佛において、大悲と出遇い、そのことが本質的には、自分に出遇う、出遇い続けていくということに変成せしめられる。

 

滝沢克己先生は、自分たちが居るということを支える根本的なはたらきとの接触を第一の接触と仰っており、

 

南無阿弥陀佛による気づきを第二の接触と仰っているように思う。

 

実はこの第二の接触は、真宗では第三の接触であろうと思う。

 

真宗における第二の接触とは、念佛である。

 

念佛を称え、念佛を聞く。この原始的な行において、実は既に深く無量寿如来との関係がある。

 

そして、第二の接触を通して、第三の接触

 

即ち無根の信の発起が凡夫において起こる。

 

こちらに根が無い、所属しない信心故に、

 

如来回向という。

 

このような構造を真宗は持っているのではないかと思う。

 

このことをもっと深く考えていきたいと思っています。

 

南無阿弥陀佛とは、全く底なしの大悲であります。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スペースについて(随時更新します)

この頃、長文を書くのが億劫になってしまい、まともにブログの更新ができておりませんが、おかげさまで元気にやっております。

 

基本的にX(旧twitter)でその時におもったことをポストしています。

 

少し毛色が変わったものとして、スペースを何度かやっています。

 

大体一時間以内で、本やお聖教の言葉をてがかりに宗教哲学について考えています。

 

まぁ、誰も聞いていないですし、誰かにというよりは、自分のために話をしているような感じですが、正直な言葉で、正直な話をするようにしています。

 

アカウントを持っておられたら聞いて頂けるかと思うので、もしよければお聞き下さい。

 

僕はずーっと、四回目の内容が大切なものだと考えていたのですが、有縁の先生、清沢満之先生、滝沢克己先生の指南を受け、

 

(われらは確かに今ここに居る)ということの大切さに心が惹かれつつあります。

 

これが五回目の内容であり、

 

帰命無量寿如来、という正信念佛偈の第一句です。

 

もう少し言葉にまとめられたら、ブログで考察してみたいと思っています。

 

即ち、今ぼくらが存在していることを支えて下さっているはたらきがあるということであり、そのはたらきこそが無分別であり、平等であり、智慧であり、慈悲であり、大悲ではないだろうか、と思うことであります。

 

 

一回目(挫折すること、苦悩すること)

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1733306400389128434?t=dKTYd5tchh1ju39l4QD4eQ&s=19

 

二回目(宗教哲学について)

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1742459372993917251?t=h7H3BmeuRDEgB5502vToTA&s=19

 

三回目(真宗について 大乗の魂をてがかりに)

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1743452718101041500?t=ascMPsKzk-P21jLSnUGzkg&s=19

 

四回目(正定聚不退転について)

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1745989134144184353?t=JYhq-xCmvMILwYUf6c-oaw&s=19

 

五回目(煩悩や菩提の前にあるもの)

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1754686692836233581?t=HOxo6Dt1lH6B08UiwTxdNw&s=19

 

 

 

清沢満之先生 我信念より

 

無限大悲の如来は、如何にして私に此平安を得しめたまうか。外ではない。一切の責任を引き受けて下さることによりて、私を救済したまうことである。

 

如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。

 

如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。

 

私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。

 

私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。

 

このような言葉を媒介にして、伝わってくる、響いてくるものがあるように思うことです。

 

 

南無阿弥陀

 

2024.4.27追記

 

六回目

木村無相さんの本(求道60年歎異抄を生きて)をてがかりに。

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1783345050807873635?t=LcMkq-nzeod8MGyCUB4BIw&s=19