むなしさとともに

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名無往生文 不退転について(位と行)

現在は西暦二○十八年八月の候なり。時は末法の頃なり。

 

佛教、われらが浄土真宗に言われるところの不退転に二の側面あり。

 

これ自身に已証されたところの功用なり。

 

一つには地不退という。凡夫地不退ともいう。

 

正しく自身は煩悩具足の凡夫、我生死出づること能わず、常没の

 

凡夫なりと信知決定せしめられるなり。この信、思想ならず、

 

考察ならず、概念ならず、ただこれ光明なり。自身を如実に暴露される

 

ところの如来智慧のはたらきなり。

 

親鸞聖人いわく、専らこの行に仕えただこの信を崇めよ、の信なり。

 

また決して浄土往生できぬ我を必ず救う願力に託せしめる信心なり。

 

二つには行不退なり。即ちわれらに回向し、信心決定せしめられるところの

 

選択本願念佛なり。

 

選択とはただ一つを選び取るなり。選択摂取ともいう。

 

これ一つで助けるぞという如来の誓いの御名なり。

 

本願とは佛説無量寿経上巻の因位法蔵比丘、果位阿弥陀如来

 

第十八願の念佛往生の誓願なり。

 

善導大師の釈には、下至十声若不生者不取正覚と仰る。

 

たった十声なりともわが名を称える者をわが浄土へ

 

往生させることができないならばこの法蔵は佛になること

 

あることなし、のこころをあらわす。すなわち如来甚深微妙の法、

 

無限大悲の佛心にたすからぬわれらが平等に摂取されるところの

 

因行をあらわす。念佛往生は因位法蔵の渇望されたところの

 

本願なり。

 

佛のお心を現代の人々と噛み締め、深く如来の恩徳を

 

仰ぎ、ともに平等に真実報土へ往生せしめられたし。

 

この本意を示すためにこれを示さん。古書古文でなく、

 

今現在の言葉で如来の恩徳を表明する。

 

南無不可思議佛

 

 

本願を証しする

弥陀の本願は見えない。今は如来を直接拝見することはできない。

 

教えはあるが、行がない。行ずる力がない。

 

法は弘めるものでなく、本当に教化を受けた人から自然に弘まるもの。

 

如来は我らに要求している。

 

法を証ししてくれ、と。法を表現してくれ、と。

 

法は必ず人に即して展開される。なぜなら色もなく形も超絶している故に。

 

法と人が一つになった方が如来であり、法の表現者が菩薩でありましょう。

 

法は場所がなければはたらきようがない。法は人を求めている。

 

人が法を求める力よりももっと深く、もっと広く。

 

唯佛独明了(佛説無量寿経 東方偈)

 

南無不可思議光如来

無功用

達磨大師の言葉に、無所得があると聞いております。

 

曽我量深先生の言葉に、回向は表現であるというものがあります。

 

往生は表現であると僕は思います。そして、それを表現する人を

 

諸仏に等しい方々だと思います。そして、その方々は今も満ち満ちて

 

おられるし、これまでもそうであったし、これからも満ち満ちて

 

いかれます。

 

自利には限りがあり、利他に転換して初めて、無功用、無所得の

 

行が顕現します。七地と八地は全く別物であり、

 

七地にはまだ憂慮が残っているが、八地は諸仏のお力によって

 

広々とした本願海へ入れしめられる。執着に力点がはたらかない。

 

本願海の智慧の波によってすぐに遠くへさらわれ、見えなくなっていく。

 

まことに尊い大悲智慧のおはたらきに、深く礼拝致します。

 

どこまでも飽くなき実践が、本願の表現であり、

 

御恩報謝であり、法輪を転じていくことになりましょう

 

仏道は実践であり、娑婆は表現の場であり、十方衆生に出会い続けていく

 

大事な場所であります。

 

南無阿弥陀