むなしさとともに

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無明の闇を破するゆえ智慧光仏と名づけたり

この人はあなたにとっては、取るに足らないただの人かもしれない。

 

しかし、僕にとっては、かけがえのない、唯一無二の大切な人である。

 

僕はあなたの大切な人はわからない。

 

あなたは僕の大切な人がわからない。

互いにお互いの存在の尊さ、大切なものが何も分からない。

理解し、受け止め、尊重することができない。

これはわれら衆生が具足する無明の一側面である。


また互いを貫く本質的普遍性も分からない。

これを真理とか道理という。

 

また自分の本質性、すなわち凡夫であるという事実を見失っている状態と

 

真理を見失っていることは、実は一つであると仏教では説かれている。

 

故に流転、退転し、休まること留まることあることなし。これを苦という

苦の根本原因を無明という。根本的無知の状態を無明という。

 

全てはこの無明を因とし、縁としている。

 

この因縁ゆえに苦悩が絶えることなく繰り返される。

 

苦しみは結果であり、因ではない。


無明の闇を破するゆえ 智慧光仏と名づけたり

一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり(浄土和讃


この身体がある限り、無明もなお存在する。しかし、法蔵比丘は仰る。

 

我汝を助ける。タスケズバオカナイと。助けるタスケズバオカナイの中身とは、

 

汝の無明をこの法蔵が破る、わが名を称えよ、必ず救うということである。

 

汝、根機つたなくして嘆くことなかれ。

その思いに縛られることなく、ただくちに

念佛せよ。心配するな、マカセヨ。タスケル。汝の一切の責任は我が引き受ける。


わが名を称えるものが、わが浄土へ必ず

 

往生することはわが本願であり、そしてそれは成就した。

 

中村元先生訳、大無量寿経で書かれていた深い一文である(岩波文庫


この救い、かたちなき大悲がかたちをとってまで顕現してくださった、

 

救い、すなわち浄土往生の時節到来を今、正に、常に、告げ知らせるのが、

 

この煩悩具足の身にあふれ出してくださり、今称え、今聞こえる南無阿弥陀佛。

 

この声を聞くばかりで他に何もいらない。

 

今生を最後に、必ず往生を遂げさせて頂く。

否、もはや浄土も地獄も望まず。

 

如来の連れて行ってくださるところへ行くばかりで、何も文句はない。

 

如来にいだかれて、どこへでも行くのみ。これを摂取不捨と名づく。


ここまで大悲を聞きぬかねばならぬ。

 

一つことをわがタマシイへしみこむまで聞かねばならぬ

ただ一ついわれ、同じことをわがはらわたにしみ、タマシイにこたえるまで

よく聞けよとのたまう(香山院龍温師、龍温語録)

 

南無阿弥陀

 

 

 

本願招喚の勅命

帰命は本願招喚の勅命なり(顕浄土真実教行証文類 行巻)


私のようなものは、如来の御名を称える資格はありません。

 

私のようなものは、煩悩と生死から離れることができません。

 

私のようなものは、誰かを傷つけずに、あるいは何かの命を奪わずに

 

生存することができません。

 

また智慧なきが故にどうすればよいのか分かりません。

 

私のようなものは助けられる資格は全くありません。


そんなタスカラヌ自分にめがけて、

 

わが名を称えよ、どうかわが名を称え、

 

往生させてくれよ、と仰って下さる。その言葉が南無阿弥陀佛。


私に信心はない。

 

煩悩と生死、我執我愛、差別、執着、殺生、貪、慢をそのままさしおいて、

 

ただ念佛申すばかりで必ずわが浄土へ往生させる、

 

汝にかかわる一切の罪、全責任はこの弥陀が引き受ける、

 

汝はただ念佛申すばかりで助ける。心配するな。

 

この言葉であります。

 

この言葉がすべてであり、如来の仰せであり、

 

最後の拠り所、腹の据わりどころであり、わたしの存在の根底を支える

 

本願の大地であります。これは一念に出来上がったものではなく、

 

信の一念の前、否、久遠の古からずっと在ったのであります。

 

ただそれを見失ってずっと流転していただけなのであります。


この阿弥陀如来

『汝タスケズバ我佛ニナラジ』の仰せ、

 

これを親鸞聖人は本願招喚の勅命と仰られた。

 

もはやわが力及ばず、ただ弥陀の誓願不思議、すなわち、

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしという諸佛善知識のお勧めが

 

最後の拠り所でありましょう。


私はただくちに南無阿弥陀佛と申し、耳に聞くより外に何もなくなってきました。

 

思いはからいが削ぎとられてきた、いよいよ助からぬ身が暴露されてきた。

 

全く助からぬ存在、微塵も助かる余地のない存在、

 

言葉の絶え果てた最低底下の愚者であるということを直視せざるを得ない。

 

いよいよ全く助からぬ存在であると暴露されるからこそ、

 

そんなお前を我タスケズバオカナイという如来の大悲が輝きを増すのである。

 

明遍照十方世界 念佛衆生摂取不捨 


如来に、汝わが名を称えよ、と仰って頂けること以上の身の幸せはありますまい。


われら衆生はこの如来の仰せ、誓願によって、往生させて頂くばかりである。


もはや凡夫が何を言おうと、何をして妨げようと、如来からの念佛往生の道を

 

妨げることあたわず。凡夫の妄想に微塵の用事なし。

 

故に無碍光如来と申す。煩悩をくだき、貫き、

 

必ず涅槃に至らしめる大いなる無限大悲のはたらきである。


誓願不思議とは、如来の無限無量無辺の果てしない大悲のことを指すのである。

 

念佛して助かるのでない。念佛の相をとってまで接近してくださった、

 

如来のやるせない大悲の心で必ず往生せしめられるのである。

 

念佛は大悲の相である。これを選択本願念佛と申す。

 

順彼佛願故、称我名号下至十声若不生者不取正覚。

 

帰命無量寿如来、南無不可思議光、帰命尽十方無碍光如来、南無阿弥陀

澄んだ瞳

夕暮れ時にすれ違った黒い盲導犬の瞳を見る。

 

彼は全く主人の目となっている。

 

横に寄り添い、黙っている。

 

彼は主人と一つになり、彼の眼は赤い夕日に照らされ、

 

透き通り、尊く澄んだ輝きを放っていた。

 

思いがけず、念佛を申さざるを得なくなった。

 

自分は彼のような瞳を忘れてしまったけれど、

 

今はただ念佛を聞こうと思う。

 

南無阿弥陀