むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

受け止める②

受け止めるということを、聞かせて頂くご縁にあった。

 

受け止めるということは、

 

自分自身が、ひとりで生きられるものではなく、

 

様々な人、もの、支え、営みの中で、生かして頂いている、

 

存在させて頂いているという事実に気づく、ということ、だと。

 

 

むなしい。苦しい。何のための生か。

 

 

このような心に陥る、こういう心の有様を、「地獄」とか「六道輪廻」と

表現するのだと。

 

この心は、他を責め、かつ他に対して、無関心であり、

全く独りよがりの自己中心、エゴそのものだと思う。

 

かつての自分はこの心根があった。今は、この心を阿弥陀さんに

滅されてしまった。この心を「見惑」と頂く。しかし、煩悩具足という

事実は、何一つ変わらない(言葉は不自由ですね。気をつけないと)

 

尊敬する先生の著書に、人間界は六道の相をもっている、と書いてあった。

 

つまり、六道は死んだ後の話ではなく、今現在の自分自身の心のありように

 

描き出される、ということだ。

 

無碍の一道とは、これらの相を否定せず、事実を事実として、

現実を現実として、直視し、身を通して、堪える力だと味わう。

 

浄土真宗、弥陀の本願は、生きた、躍動する教えである。

 

身を通さなければきっと、何も分からないだろう。

 

肝要は、そこまで聴き続けられるかどうか。

 

仏の声が、心の奥に響くところまで。

たとえ、心身、ぼろぼろになったとしても、聞くことができるか。

聞かずにはおれないかどうか。

 

たぶんその一点が、一大事の岐路だと思う。

 

仏法の主体は、あくまでも仏であり、私ではない。

 

私は一切関係ない。私は一方的な客体。本願が実際に躍動する場所。

 

絶対に主体ではない。

 

わたしが喜べるようになった、とか、感動した、とか、

ありがたいと思えるようになった、とか。

 

こんなのは妄想に過ぎない。無常の前には、化けの皮がはがれる。

何の役にも立たない。

凡夫がこしらえたものなど、風の前の塵に同じ。

 

本願への感謝、称名せずにはおれなくなるかどうか、

これが無疑の心境か否かを決する天秤なのではないだろうか。

 

浄土真宗は、厳しい。自分が徹底して、否定され続けるから。

 

でも、念仏という真実の方便が徹底されている、本当に易しい教えだと

思う。

 

結局は、ただ念仏しか間に合わない、のだから。

 

法蔵菩薩のご思案、本当に不可思議であり、ありがたいなと思う。