受け止めるということを、聞かせて頂くご縁にあった。
受け止めるということは、
自分自身が、ひとりで生きられるものではなく、
様々な人、もの、支え、営みの中で、生かして頂いている、
存在させて頂いているという事実に気づく、ということ、だと。
むなしい。苦しい。何のための生か。
このような心に陥る、こういう心の有様を、「地獄」とか「六道輪廻」と
表現するのだと。
この心は、他を責め、かつ他に対して、無関心であり、
全く独りよがりの自己中心、エゴそのものだと思う。
かつての自分はこの心根があった。今は、この心を阿弥陀さんに
滅されてしまった。この心を「見惑」と頂く。しかし、煩悩具足という
事実は、何一つ変わらない(言葉は不自由ですね。気をつけないと)
尊敬する先生の著書に、人間界は六道の相をもっている、と書いてあった。
つまり、六道は死んだ後の話ではなく、今現在の自分自身の心のありように
描き出される、ということだ。
無碍の一道とは、これらの相を否定せず、事実を事実として、
現実を現実として、直視し、身を通して、堪える力だと味わう。
浄土真宗、弥陀の本願は、生きた、躍動する教えである。
身を通さなければきっと、何も分からないだろう。
肝要は、そこまで聴き続けられるかどうか。
仏の声が、心の奥に響くところまで。
たとえ、心身、ぼろぼろになったとしても、聞くことができるか。
聞かずにはおれないかどうか。
たぶんその一点が、一大事の岐路だと思う。
仏法の主体は、あくまでも仏であり、私ではない。
私は一切関係ない。私は一方的な客体。本願が実際に躍動する場所。
絶対に主体ではない。
わたしが喜べるようになった、とか、感動した、とか、
ありがたいと思えるようになった、とか。
こんなのは妄想に過ぎない。無常の前には、化けの皮がはがれる。
何の役にも立たない。
凡夫がこしらえたものなど、風の前の塵に同じ。
本願への感謝、称名せずにはおれなくなるかどうか、
これが無疑の心境か否かを決する天秤なのではないだろうか。
浄土真宗は、厳しい。自分が徹底して、否定され続けるから。
でも、念仏という真実の方便が徹底されている、本当に易しい教えだと
思う。
結局は、ただ念仏しか間に合わない、のだから。
法蔵菩薩のご思案、本当に不可思議であり、ありがたいなと思う。