むなしさとともに

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なぜ枝を切り落とすのか

今日は立冬とのこと、月日は百代の過客とは本当ですね。

 

でも、今年はとても忙しいので一年が長く感じます。

 

今回はタイトルについて、考えを述べます。

 

自分が勤める会社の敷地には一本の木があり、多くの枝葉があります。

 

枝には紅葉しつつある葉がついています。

 

風が吹くと、毎日たくさんの葉が道に落ちます。

 

葉は基本的に、掃除当番が朝、掃き掃除することになっていますが、昼過ぎには既に葉が落ちています。

 

この頃、空いた時間を使って、枝を切り落とし、夕方に掃き掃除をしています。

 

自分が所属する部署は総務も司りますので、わりと何でも対応する必要があり、本業だけやっておけばいいという訳ではありません。

 

中小企業に務めるとはそういうことです。

 

さて、なぜ枝を切り落とすか?

 

それは、掃除当番の負担を軽くするためでもあり、近所への配慮でもあり、自分の祈りでもあります。

 

 

祈りとは行です。行とはすがたです。

 

 

心はかたちなきものなので、何らかのすがたを取らざるを得ません。どれだけ思っていてもかたちがなければ、相手へ届きません。

 

ただ、届くかどうかは、相手の感受性に依ります。こちらでどうにかなることではありません。

 

どうせ届かないだろう、と言い訳にして落ち葉に気づかないふりをするのではなく、関わっていく。はたらきかけていく。

 

届くか届かないかは自分の範疇ではない。自分はとにかく行じていく。

 

問題に当事するということはこういうことだと思います。

 

先週から70リットルのゴミ袋3袋分の枝を切り落としました。あと2袋くらいかな。

 

南無阿弥陀

 

追伸

このブログを始めてから8年が経過しました。2015年11月1日からのはずなのです。ペースは落ちてきましたが、念願は人格を決定す、継続は力なりということで引き続き宜しくお願い致します。

 

 

座標を獲るということ(所在)

時間が経つのは早いですね。今月はこの記事の投稿だけになりそうです。

 

 

 

今回は、所在について考察します。

 

 

まず結論を。

 

(ここは娑婆なので、何処にも居場所はない。あえて自らの座標があるとすれば互いの自身のみである)と考えます。

 

 

むなしさを(所在)という側面から考える場合、

 

身の置き所がない。

 

何処にも自分の居場所がない。

 

安心して居れる場所がない。

 

安心して居れる場所だと思っていたが、安住の場所ではなかった。

 

 

こういう言葉で言い表せるのではないかと思います。

 

さて、自分の居場所とはいったい何なのでしょうか。

 

繰り返しになりますが、人間である以上、孤独は避けられないと思うのです。

 

身が違うため、互いに住む世界、見える世界が異なるので、決して分かり合うことはない。

 

つまり、自分のことを本当にわかってくれる者など居ないのです。また、翻せば、自分も真に誰かのことをわかってあげることかできないといえます。

 

つまり、孤独は避けられない。

 

場所とは、誰かが居てくれるものです。

 

自分を待ってくれている人が居るから、帰ることができる。

 

さて、本当の意味で自分を待ち続けて下さる方がいるのでしょうか。

 

人間であるということは、常に限界を抱えています。金銭的にも、精神的にも、肉体的にも、できること、許容できることに限度がある。

 

仮に親、兄妹であっても、許容値を超える事象として、自分が寄りかかったなら、見捨てられるのです。重荷を見捨てなければ、彼らが潰れてしまう、と言い換えてもよいです。

 

つまり、お互いには確実に限度、限界があるのであります。

 

つまり、人間が人間を助ける、真の意味で救うことは不可能だと考えます。

 

本当に行き詰まったことがなければ、この残酷さを理解することは難しいと思います。

 

身を通したことは忘れたくても忘れられない。

 

自分にとって、このことは譲ることはできぬことです。

 

つまり、畢竟、自分にとって安心して居れる場所などないのです。

 

では、真宗でいう、正定聚不退転という言葉における、所在とはないのか? 

 

否、この身が所在です。ここしか自分の所在などないのです。そして、こここそが、如来と邂逅を果たす大切な場所なのです。

 

つまり、機といいます。

 

本願の機ともいわれます。

 

煩悩具足の凡夫とは、機、すなわち、自分の座標を指します。

 

座標において、自分が定められ、同時に、如来まします、大悲ましますということが体解せしめられると感じます。

 

この身は滅んでいく。白髪も少し増えてきました。確実に老いています。

 

しかし、南無阿弥陀佛は滅びない。必ず涅槃に至らしめて下さる。これを必至滅度と申します。

 

即ち、佛のさとりはひらけない故に、苦悩は死ぬまでやまないけれども、必ず浄土に至らしめて下さることは、確実であり、その名告りが南無阿弥陀佛。

 

南無阿弥陀佛といっても、今ここに、この身に称えさせられ、聞こえて下さるところのお念佛のほかになし。

 

一声一声が大悲。

 

この大悲に助けられて、必ず浄土に至らしめられる。そのことが決定している。

 

仏法も信心もない。あるのは煩悩ばかりだ。

しかし、無礙の光明は煩悩を障りとしない。そのまま貫き、徹照して下さる。

 

この南無阿弥陀佛に助けられて往生せしめられるばかりで、ほかになにもない。

 

この煩悩具足の凡夫の身のほかに、自分の所在などないと思うことであります。

 

南無阿弥陀

 

阿弥陀佛、すなわち、法がぼくらを待っている。このことに気づくか、気づかぬかが人生における一大事であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

座標を獲るということ(存在)

何となく長文を書く気分になれず、

 

このところ、一ヶ月に一度の投稿がやっとですが、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

 

むなしい、ということの本質は何かということを考えると、次のように感じます。

 

(存在)人生における手応えのなさ、自分が存在することの意味が分からない。

 

(所在)何処にも自分の居場所が見つからない。

 

 

今回は(存在)について考えます。

 

まず、今の自分が感じる結論は、

 

「手応えはなくて構わないし、自分が存在することに特に意味はない。縁起で存在しているだけである、しかし、本当のところ全く縁起が分からない」です。

 

手応えがない、ということは、際限のなさともいえます。

 

努力してこなかった訳ではないし、それなりに苦労してきましたが、結局、果てしないのです。

 

上には上が居る。

 

現実に、天賦の才というものもある。

 

努力ではどうにもならないことがある。

 

最終的に必ず死なねばならないし、生まれてしまった以上、老病死は不可避である。

 

存在するということは残酷で厳しい。

 

 

ざっと、こんな感じでしょうか。

 

 

これらに対し、疑問を持ち、道を求めることが始まるような気がします。

 

 

今ここに居る以前、仏教では久遠の過去、あなたは流転し続けてきたのです、と教えられます。

 

なぜ自分はこの世界に居るのか。

 

この問いの答えは、僕はただの一度も成仏したことがなかったからです。

 

つまり、仏に成るべき身に定まるということが今に至るまでなかったのです。

 

だが、幸いにもようやく弥陀の本願という法に巡り合うことができ、今ここでこの身において念佛を聞くことを獲た。

 

この念佛において、念佛にまで成って下さった大悲本願のお心が聞こえて下さった。

 

自分の存在全体、或いは、存在の底に届いて下さった、これが「聞」ということの、僕における実存的表現です。

 

意味は存在することの後に有るものです。

 

必ず存在の後であり、前ではないし、この順序が入れ替わることはない、と思います。

 

このことは、自分は凡夫として今ここに居るという気づきによって恵まれる智慧であります。

 

煩悩具足の凡夫とはほかの誰でもない、自分のことであった。このことが(自らの座標を獲る)ということです。

 

大事なことは、僕らの座標は無いではなく、あるのに見失っているということです。

 

このことは自分で気づくことはできません。

 

凡夫が凡夫と自覚することはできません。

 

なぜなら智慧なき無明の人間を凡夫というからです。

 

智慧の光明に照らされて、凡夫であることを奪還する、これを深信自身といいます。

 

深信自身が、いのちある限り深まっていく道程を往生、殊に真宗では、念佛によって深まっていくために、念佛往生と申します。

 

念佛往生は、身が終われば必ず成仏せしめるはたらきをもちます。

 

存在を奪い返すことにより、自我が客体化される。つまり、我執が智慧により相対化されます。

 

これにより、縁起ということを教わっていくことが始まります。縁起とは、関係であり、因縁和合によって、自分は今ここに居るし、考え、行動するのだ、と。

 

つまり、関係を離れては自分も存在することができない、ということです。

 

おかげさま、ということです。

 

人間である以上、意味や価値から解放されることはない、しかし、意味や価値は虚妄に属するものであることは智慧の念佛から教わっているのです。

 

自分は智慧なき者ゆえ、都合の悪い縁起を憎むのです。俺の邪魔をするな、と。つい、夕方思ったばかりです。

 

故に苦悩は免れませんが、やむを得ない、思うものは思うのですから。

 

 

 

次は、所在について考察します。

 

南無阿弥陀