むなしさとともに

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むなしさを信頼する

無縁の大悲。摂取不捨。

この言葉の出所を聞く。この出所を本願といい、南無阿弥陀佛という。

 

表面ではなく、言葉の本質、言葉の響き、いのちが形をとった言葉、

言葉となってまではたらくいのち。

それを聞くのだ、と。和田先生の『常没の凡愚』を聞かせて

頂いて改めて思うことである。

 

いのちの要求。それは僕にとっては『むなしさ』であった。『むなしさ』は

お前はこれでいいのか?という問いかけであった。

 

静かではあったが、自分を貫いて要求してきた、確かないのちの声であった。

 

今は『いのち』の声に耳を傾けたいと思う。『いのち』は

共に認め合い、共に助け合い、共によろこび、共に分かち合い、

いのちの友となることを要求している。

 

そして、このことを如来はかねてご存知である。十方衆生という言葉の

でどころはいのちの要求だと思う。

 

 

そのむなしさを信頼しなさい。

 

和田先生はこう仰ったことがあると伺った。

素晴らしい言葉である。このような言葉のいのちを、いつまでも見失わずに、

いのちのともがらと共に生きていきたい。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

よろこびも悲しみも貫く

よろこびたいが、よろこぶばかりにはならない。

 

またよろこびだけでおさえられるほど、人間は浅くない。

 

人間は深いものだ。歴史と悲哀を背負っている。

 

明けましておめでとう。幸多からんことを。

 

どうにも違和感を感じてしまう。

 

よろこびも悲しみも苦しみも孤独も、みな大事な自分自身ではないか。

 

思い通りにいくことが幸いではない。

 

佛の本願とは、どうしても自分の宿業から逃れられないもののために、

その者が自由に、笑顔になるのなら、私は総てを捧げよう。

どうか汝は汝自身を大切にするんだよ。

 

この心を法蔵比丘の願心、佛道の根本、浄土の大菩提心

 

弥陀の誓願という。その心が言葉に声に成って今ひとりひとりに響く。

 

それが南無阿弥陀佛、一声の念佛である。如来の血と脂と汗と痛み、

 

まごころが込められている。

 

もう自分だけの思いに閉じこもるわけにはいかない。

 

如何に非力であっても、如来選択の大行をともに

 

往生浄土の道をとぼとぼと歩む。

 

本願とともに。南無阿弥陀

形から心を見出す

心は形をとって現われる。

 

形を通して心を見出す。

 

どれだけ心を粗末にしてきたか。どれだけ見落としてきたか。

 

心は必ず形をとって現れる。

 

形を通して心を見出す。

 

今年、自分が生活から確かめていかねばならない課題だと感じた。

 

法性法身は形をとって現れる。それが方便法身。

さらに方便法身から法性法身を見出す。

 

藤谷先生から聞いた大切な言葉。

 

この言葉を友に確かめていきたい。

 

本願とともに。南無阿弥陀