むなしさとともに

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即横超截五悪趣

即横超截五悪趣と云う言葉が気になります。

 

何気なく読んでいた正信念佛偈のご文でしたが、このお言葉は

 

ただごとではない。

 

横超が浄土真宗、他力念佛の本意。

 

悪趣自然閉、閉塞諸悪道 通達善趣門。

 

われらが流転するのは、三毒の煩悩が原因ではない。

 

無明住地によって、流転している。

 

無明住地という言葉は勝鬘経義疏聖徳太子)にて教えられた。

 

即横超截五悪趣の断絶する対象は一体何か?これが気になっています。

 

無明住地という衆生流転の根本原因を断つことができるのは、

 

如来の菩提智のみであると聖徳太子は教えてくださっている。

 

これを確かめていきたい。

 

なぜなら、誰かの問題ではなくて、自分自身の現在の問題だから。

 

仏法とは、存在全体を通して、ひたすら聞いていくもの、如来

 

尋ねていくものだと体解する。

 

自分には自分の後生の一大事が、あなたにはあなたいちにんの一大事がある。

 

それは誰にも代わる事ができない、厳粛な存在の問題である。

 

梯先生は、このいのちは、他のだれも生きることができないいのちであると

 

仰っていた。そのとおりだと思う。

 

悲しいけれど、われらの命には限りがある。

 

限りある命を本当に生かすためには、如来

 

出遇うしかないと思う。なぜなら、如来以外の一切は、

 

存在の大地とはならないからである。如来のみが常住であり、

 

如来は縁起を超えているからである(究竟法身、法海常住の意)

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

大切なことは何か

本当に大切なことは何だろうか?

 

そんなことを思う。しかし、日常は常に自分のものさしに

 

流され、気がついたら、身が動いているということもあるし、

 

殺生を幾らやめよ、と仰られても、それを止める力がありません。

 

残念ながら、自分は人の身を生きているからです。

 

しかし、そういうことも今はもはや無用。

 

専ら我をたのめ、と仰る如来にまかせるのみ。

 

結果は知らない。

 

本当に大切なことは仏縁だと思う。それがすべてであり、

 

それがなければ、本当に生きている意味が削がれてしまう。

 

仏縁とは何か?具体的には一声の念佛。

 

一声の念佛から法性法身を頂く。

 

法性法身から方便法身、すなわち弥陀如来、南無阿弥陀佛、

 

声の如来に帰る。

 

それだけが常住であると教えて頂く。

 

よきひとの仰せを専ら聞く。よきひととは如来である。

 

残念ながら、もはや凡夫の言葉や思いに用はない。

 

それらがいくら痛みを加えても、弥陀に託す。それだけが唯一の道。

 

それだけでいいし、それしかない。もう道がない。

 

でもこの道は佛からの道。念佛の道。如来からの道。

 

如来からの道がこの一声の念佛。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

夜道のセミ

夜道を歩く。

 

影が動く。あっ、セミだ。

 

土から出てきて、もぞもぞしている。そこは歩行路。

 

踏み潰されてるのを見るのがいやだ、手を伸ばすともぞもぞ上ってくる。

 

少し腕をよじ上る。殻に成虫の兆しが透けている。

 

このセミは何歳だろうか?

 

木に置くと、ゆっくり上っていった。

 

今頃、彼は無事鳴いているだろうか?彼もいのち、自分もいのち。

 

おぉいのちのともがらよ。そのともがらをもてあそぶ事しかできぬ自分よ。

 

自分の思いから一歩も出ることができない。本当に浅ましいけれども、

 

このありようをやめることができない。沈みきっている。

 

ただし、ともに見捨てぬ大悲まします。無量寿如来と申します。

 

われをたのめとよびたもうなり。