むなしさとともに

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往生は慈悲の表現

法は広めるものではなく、

 

最も如来から教化されたひとを通して、

 

広まるものである。

 

これは真宗大谷派、和田稠先生の

 

真宗門徒という本の中にでる一節です。

 

僕にとって和田先生は往生の先生。

 

往生は念佛生活であり、具体的現実、

 

実際の生活で如何に浄土のはたらきを

 

表現できるか、これが勝負であって、

 

ただ一人で念佛に酔っぱらっている者は

 

腰抜けであると思う。

 

浄土のはたらきは、ひとを通して、

 

娑婆でどのように展開され、表現されるか❔

 

忍耐。信頼。迅速。知恵。配慮。感謝。

 

発見。探求。原因分析対策。傾聴。

 

無言。実行。愛語。慚愧。再起。止観。

 

布施。精進。不悔。

 

いわゆる六波羅蜜、特に智慧波羅蜜

 

よって大悲が具体的現実に顕現する。

 

その役割を念佛の行者は担い、

 

阿弥陀佛から期待されている。

 

全く応えられないが、如来わが往生を

 

さだためたまいしご恩に塵ばかりでも

 

報いたいと願う。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

弥陀の本願

選択本願念佛とはわたしの原点であり、一切衆生の原点である。

 

自分は凡夫である。故に何度でも本願念佛の道から曲がっていく。

常にわが心身への楽を中心に考察し、行動する。

 

この身を具足している以上、煩悩を避けることはできない。

かといって、煩悩に埋没することもできない。

 

苦しいから、とても寂しいからだ。

 

でも孤独は避けようがない。これは全くの事実である。


さすれば、どうするか?


いつでも原点に帰れ、我汝を往生させる、

わが名を称えよの如来の仰せに帰る。

 

南無阿弥陀佛と念佛を申す。申せば耳に聞こえる。

 

耳に聞こえることあたわずば、

骨に響く。この念佛の響きが大悲を表し、

智慧のはたらきを成してくださる。

 

智慧は止観であり、本質を見抜きうる如来の透徹した眼である。


智慧の念佛うることは 法蔵願力のなせるなり


法蔵比丘はわが真の友であり、阿弥陀如来の因位である。


本当にわが悲しみと浅ましさを知りぬき、タスカラヌものを必ず助けると

 

誓ってくださり、今、

 

正しくはたらいてくださる大いなる慈悲であり、智慧である。

 

常に寄り添い、喚びづめに喚んで下さり、照らし抜いてくださる。

摂取不捨の無限の大悲が智慧となってはたらいてくださる。


親鸞聖人は自分の煩悩と苦悩の人生に泣いた人だと聞いたことがある。


どうにもならない心と悲惨な現実を直視したとき、

人はただ立ち尽くし、言葉が果てる以外ないのである。言葉を失う。


そこで問われるのである。自分は一体何をしてきたのか?

人格でも現実でもなく、たった一人の実在として、問われる。


はだかの実在を宿業といい、われというのだと思う。


このタスカラヌ宿業を自身のはたらきの場所として現れいでるものを如来といい、

智慧といい、光明といい、大悲といい、選択本願念佛といい、

阿弥陀如来という。

 

宿業に泣いて、如来に帰命する。

どうか助けてください、あなたに托します、

仰せに従います、と。

 

すなわち時節到来の真実の一念、煩悩具足の凡夫、

如来の声に出遇う。

 

阿弥陀如来とはわれら凡夫のために、

声の相を選択し、他の一切の相を捨てた如来であり、故に法便法身と申す。

 

煩悩具足の凡夫、正しく如来に出遇いえたならば、

そのものは念佛を通じて生涯出会い続ける。

開け続ける。照らし続けられる。

 

すなわち助からぬものであると知らされ続ける。

 

そして、だからこそ願力は無窮であると告げ知らされる。

 

このはたらきこそ、念佛往生と名づく。

念佛往生が救いの中身である。

 

往生せしめられ、必ず無量光明土、真実報土へ至る。

 

そのことを必至滅度と親鸞聖人は仰ったのである。

 

浄土真宗、真の仏法とは実践であり、表現である。

 

弥陀の本願は疑う余地がない。

完全な計画であり、今はその道中である。

 

弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな

 

摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり

正像末和讃 親鸞聖人)

 

南無阿弥陀

 

 

喪失を機縁に

災害に被災するという感覚が分からなかったが、

こういうものなのだなと身を通して感じた。

言葉に出来ないが、ずっしり重いというか。

家族や親戚友人知人には直接的な被害は

なくても、見慣れた景色や図書館を

思えば、なんとなく今日は胸が苦しかった。

知らない間に自分の一部になっていたのだなと

改めて知らされた。


何にせよ、自らの身を通して学ぶ、実感することが、

本当に学ぶということであり、そうでなければ、どれだけ学問しても、

どれだけ思索しても、それは独りよがりであって、学ぶことにはならない。

いのちある間のこの人生は、有縁のともがらとともに、

悲しみ苦しみに身を浸し、それらを体解せよ、ということだと受け止めたい。

信心決定しても、煩悩はなくならない。

無佛法の普通の人と何も変わらない。

自戒を含めて、重ねて重ねて確認したい。

信心は自分と他人を区別する根拠には決してならないし、

してはならない。

法執は我執よりも更に激しい。驕慢に陥りやすい。それほど、

自分の凡夫性はしつこく、根深いのである。

だから、忘れてはならない。

南無阿弥陀佛、念佛の法は平等を必ず成し遂げるものであると。


南無阿弥陀