藤谷秀道先生のことばです。
十地経が初歓喜地から法雲地まで述べられて
いることにも関わってくると思うのですが、
たとえ信心決定しても、煩悩を具足、即ち
身にまとっていることは変わらぬのです。
それどころかいよいよ深く、浅ましいことを
如何に知らなかったか。どれだけ世界から自分が
許されて存在してきたことかをおぼろげながら
知らしめられるのではないかと思うので
あります。信心とは自分と他者とを区別する
為に起こるのではなく、自由と平等と連帯を
開くために浄土がはたらいてくださる、
智慧という相を選んで、念佛にまでなって
喚びかけてくださる。
そこに何度でも帰る。そこにはもがき悩みが
尽きねども、信心の純化、あるいは
菩薩の階梯という道程が自ずから開かれる、
そういうふうにこのブログを始めて
三年、過ごしてきて思うのであります。
信心は娑婆に下り、人間のはらわたにまで
浸透したならば柔軟心となって、六波羅蜜となり周りの人に
はたらく。その波紋は仏法に縁のない人にも必ず
伝わる。これが還相回向の現実の相である。
死んでから還相回向というだけでは済まない。
生きている今から還相回向の徳が一分つくのであります。
藤谷先生の声が響くのであります。
南無阿弥陀佛