むなしさとともに

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もう一度立ち帰る

唯識を読んでいた途中で、心が移り変わり、

 

専ら経済や仕事の本を手に取っています。

 

知らないことばかりで、また、世間には

 

立派な方が沢山いるのだなぁと感じます。

 

他者になる必要はないのですが、優れた

 

思想、実践、過去の軌跡は知りたいのです。

 

現実は厳しく、残酷で、悲しい。

 

だからこそ、しなやかに、地に足をつけ、

 

たとえ道半ばで力尽きても、一歩一歩

 

歩いていきたい。世界や他者をどうこうした

 

いのではなくて、

 

一途に自分を訪ねていきたい。その果てに

 

到るべき彼岸があるのではないかと思う。

 

本願を表現とか思ったこともあるが、

 

錯覚だった。自分はただ煩悩を尽くし、

 

道を求めていけばいい。佛事はほとけさまの

 

仕事だった。

 

南無阿弥陀

 

 

念佛に打ち込むべし

わが思いはからいに囚われることなく、

 

ひたすら一途に専ら念佛すべし。

 

念佛は大悲のかたちなり、

 

かたちなきものがかたちをとってあらわれて

 

くださったまことのかたちなり。

 

念佛の出処はすべて法蔵菩薩の願心。

 

一念一刹那も清浄ならざることなし。

 

されば、何のはからいもなく、ただい出て

 

くださる念佛を仰ぎ、聞かしめられるばかり

 

で本当に満足であり安心である。

 

南無阿弥陀

 

煩悩を憎むのではなく、よく観察し、

 

それを縁に念佛する。そうすと、広々とし、

 

だからこそ如来ましますことをいよいよ

 

憑むのであります。煩悩はまことに

 

盛んでありますが、かねて如来はしろしめし

 

てまします。

正直な気持ち

唯識は難しいと聞いたことがあるが、

 

実際すごく微細で、言葉も難しい。全然

 

わかりません。

 

最近は真宗のお聖教ではなくて、唯識

 

本をゆっくり目を通している。

 

煩悩に対する分類分析も細かいし、

 

歓喜地、信心決定がどういう意味を

 

持つかも表されている。

 

信心決定は転換点である、という。

 

そこからいよいよ自分自身の助からなさを

 

聞いていくのであり、だからこそ念佛を

 

与えて下さっていることを繰り返して

 

いく。

 

自分は本当に煩悩具足であり、とても口に

 

出せないものを抱えている。

 

 

今の自分の問題は習気の問題、実践、

 

現実であります。

 

 

暫く、自分の内に目を向け、唯識の学びを

 

進めるので、ブログも、ツイッター

 

更新頻度は落ちると思います。

 

僕は真宗の教えを明らかにするためには、

 

唯識、禅、原始仏教、西洋哲学、あらゆる

 

ものを総動員させ、関連させる必要があると

 

思います。

 

でないと、浄土真宗の教えを

 

聴聞する人が逓減していく気がします。

 

結局は唯念佛一行に帰す、これだけなので

 

すが、その念佛、即ち大悲が分からないので

 

あります。伝統教学と近代教学の融合、

 

藤谷秀道先生が30年以上前に仰っている

 

ことを思うのであります。

 

智慧は理性的であり、慈悲は情意的だと

 

テキストに書いてありました。この均衡を

 

尋ねてみたいと思います。では、おそらく

 

9月頃に。

 

南無阿弥陀

 

 

追記

 

僕は弱いので、正直、この娑婆に生きるのは

 

辛いのです。

 

自分が差別され、評価されるはまだいい。

 

したくもないのに命を奪い、他者を評価し、

 

差別し、悪口を言わなければ存在できない

 

脆弱な存在であること、これがたまらない

 

のであります。しかも、そのことをすぐに

 

忘れてしまう。本当に情けない。

 

 

この生涯が終わるのを

 

望む気持ちも少なくありません。娑婆にも

 

依らず、浄土にも拠らず。こんなことは

 

できないのであります。すると、

 

そんな汝の為の南無阿弥陀佛ではないか、

 

わが名を称えよと念佛が出てくださる。

 

故にへろへろになり、愚痴をこぼし、

 

煩悩を引きずりながら、何とか毎日を

 

やり過ごすことができている。

 

信仰はどうしてもなければならぬものであり

 

やはり真実なる大悲なのであります。

 

では、本当にまた9月頃に。