むなしさとともに

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慶哉樹心弘誓仏地

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。

 

深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。

 

これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因とし疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

顕浄土真実教行証文類 後序 親鸞聖人)

 

如来への深い帰依と師である法然聖人への

感謝の念を感じる。

 

すべての有情が往生せんことを祈り、

 

筆をとり、生涯を過ごされた親鸞聖人に

 

僕も感謝致します。

 

心のこもった文章は美しく、あたたかい。

 

 

 

分断と結束

コロナ禍がどちらをもたらしたかと思うか、

 

というものを見た。

 

分断か結束か。

 

 

個人的には、分断だと思う。

 

人が集まることを媒介とするため、

 

分けざるを得ない、

 

距離をとらざるを得ない。

 

 

聞法会のありかたも、明確に目処がつくまで

 

変えざるを得ないだろう。

 

対策にかける時間と手間と物資はコストに

 

なる。 

 

教養、金融リテラシーが高い人、そうでない

 

人の格差の拡大。

 

予約していたライブもキャンセルとなった。

 

物資の欠乏も起こった。

 

さるべき業縁のもよおさば

 

いかなるふるまいもすべし。このお言葉を

 

思い出すことも多かった。

 

そして、もうコロナ禍を気にしないような

 

株価の動き。

 

事件を利用した暴動と窃盗と破壊。

 

 

ここから何を得たのか、得るのか。

 

結束というか、自分的には、連帯という

 

言葉がしっくりくるが、そういう道が

 

あるのだろうか。

 

到彼岸。

 

もともと分断していたことが、より、

 

鮮明になったという感じがする。

 

個人として、聞法する者として、

 

どう関わっていけばよいか、まだわからない。

 

方向としては、微かなことであっても、

 

できることを具体的に行う、ということだ

 

と思う。単なる批評家に陥らぬように。

 

具体的に行うとは、いわゆる、

 

六波羅蜜のような姿をとるだろう。

 

そこには、幾ばくの自制と忍耐と痛みが

 

伴う。そうか、これは表現の問題か。

薫習

迷いの種を薫習しっぱなしで悪循環している

 

ところに、悟りの種子・悟りの香りを薫習

 

していけば、アーラヤ識は変わる、変わりうる。

 

本質的に私たちの心は実体ではなくて、

 

種子の集まりとしてある。

 

だから、種子の集まりの質を次第に

 

変えてゆき、やがては根本的に変えていくと、

 

心自体が、変わる。

 

唯識のすすめp193 )

 

薫習という言葉の響きが好きです。

 

お香が知らぬ間に染みついている。

 

自分の意図ではない。香りのはたらきであります。

 

大切なことは、お香の焚かれる場所に身を

 

置く。常に香りを身に浴びておられる師から

 

直接、弥陀の本願念佛の大悲を聞かせて

 

頂く。

 

そうすと、知らぬ間に香りの方から、

 

薫習して下さる。

 

自然なる大悲のはたらきを現すのが

 

この薫習という言葉であります。

 

美しく、無理のない言葉だと感じています。

 

以前の薫習の記事は反復の意味を

 

記していますが、反復というよりは、

 

香りのはたらきは自然なるはたらき、

 

なんとわはなしに、という感じです。

 

また変わるかもしれませんが、変われば

 

いいと思います。

 

歌を覚える感覚に近いかもしれません。

 

何度も歌ううちに、歌詞や抑揚、強弱などを

 

いつの間にか覚えている。

 

繰り返すうちに。