むなしさとともに

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大人になるということ

暑うなってきましたね。夜中も冷房入れてないと眠れない日々です。熱中症、コロナ、くれぐれもご自愛下さい。

 

当方が職場で(普段)気をつけていることは次の通りです。

 

高性能マスクの着用(KF94)、

石けんによる丁寧な手洗い(爪、手首、表裏)、

ドアノブなど共用部の消毒、常時換気(対角線上の窓2箇所を開放)

 

ワクチン3回目は、ギリ30代なので、心筋炎のリスクから、ノババックスも見合わせています。米国で承認がおりるまで時間がかかったのは事実なので、とりあえず、保留です。

 

僕は、コミュニケーションが苦手です。ただ、社会生活上、他者とのやり取りはせざるを得ないので、傾聴の入門講座を教わりに行きました。それが四年前くらいで、そこから継続してコミュニケーションのことを少しずつ学び、教わったことを実験しています。

 

エゴグラムを用いて、その人の傾向を可視化するのですが、冷静過ぎなのは人間味が乏しいですし、感情の起伏が激しいのもよくありせん。バランスだと思います。

 

やはり、時と場において、強弱をつけたいところです。

 

普段は、冷静に、かつ、論理的、計画的に物事を進めたいです。なぜなら、成果を出さなければならないので、あまりにも無駄なこと、予め徒労に終わることが予見されることに労力を費やしたくないのです。

 

職場は、真の意味で、自分の居場所に成ることはない。縁に依って組織に所属している。

 

これが自分の会社に対する認識です。冷めてると言われたらまぁ、そのとおりです。もう四十路手前ですから、色々なことがありましたし、経験し、見聞してきました。

 

しかし、苦境に立たされた時は、ある程度、感情、気持ちを全面に出し、意思表示する必要があると考えています。気持ちと言葉と行を一致させ、具体的に物事を進めます。

 

自分にできないことは、周りに助けを求めます。職位が高いわけではないので、限度があるから、です。説明や言葉遣いも気をつけます。その代わり、自分にできること、要望されることは応えていきます。

 

もちつもたれつ、というのが関係性の基本だと思います。依存しない、節度ある付き合い、距離感を保ちます。群れるのも好きではありません。

 

このバランスが著しく崩れる場合、相手と距離を置きます。僕は相手に搾取される筋合いはないから、です。

 

 

交流分析を学び、自分なりに変化があったことがあります。それは、次の言葉たちで表すことができます。

 

■I'm ok,you are ok.

 

You go your way, I go my way(CHEMISTRYの曲の歌詞)

 

相手と袂を分かっても良い(以下は自分の言葉)

 

自分は敬意をもって相手に接しても、相手は自分に対し、そうでない場合がある。その場合、自分は相手に敬意を払い続ける必要はない。

 

■の言葉は、とても驚いた言葉でした。交流分析を学ぶ機会で、初めて耳にした言葉だったから、です。

 

I'm not ok,you are ok.

 

これが自分の認知だったようです。恐らく。

 

しかし、改めて自分は自分でいいし、相手は相手でよい。袂を分かっても構わない、と認知を改められた感じがしました。

 

 

他者を変えることはできない。

 

これも自分の基本的な人間に対する考え方です。

 

 

なので、自分は自分なりに、自分にできることをやる、ただそれだけです。

 

不完全なことは百も承知です。批評家に陥ることは是としません。当事します。

 

当事するとは、具体的に行ずる、ということです。

 

当事する、ということが非常に大切なことであり、そこから教えられることが湧き出てくる、体解せしめられるような、そういう感じを持っています。

 

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕らに共通するもの

いしかわらつぶての如くなるわれら、という言葉があり、阿弥陀仏の本願の対象は十方衆生と云われます。

 

時に、現実では、僕らの言葉や思いが間に合わない出来事が起こりますし、身に覚えのない理不尽がこの身に降りかかります。

 

その時に思うわけです。何だこれは、と。なぜあんなことを起こすんだ、とか、なぜあんなことが起こるんだ、と。

 

そして、考えるわけです。

 

(僕らに共通するものは、皆かよわい凡夫であるということだけ)で、ほかに共通するものは何もないのではないだろうか、と。

 

凡夫とは久遠の業を背負い、縁に催されて、動き回り、そして、今ここに立ち尽くす者であります。

 

それは誰のことなのか、という問題が、宗教哲学の問題ではないかと思う。

 

この世界では、どれだけ清廉潔白に生きたとて、必ず、理不尽に苛まれます。

 

それは、老病死であり、老病死は生から派生しているものであり、生は無明にその根をもっている。

 

無明の存在が凡夫ということであり、それは自分であるという自覚、お照らしを蒙ることにおいて、

 

無明が無明のまま落ち着く、無明が無明であることを憎むでもなく、忌避するのでもなく、落着する、ということがあります。

 

阿弥陀仏のことを畢竟依とも云われます。畢竟依とは、最後の拠り所であり、本願に出遇うとは、無明が所在を得たということではないかと考えます。

 

即ち、場所を得たから落ち着くのであります。浄土ということは所在の問題ということを示唆しているのだろうと、折にふれ思うことであります。そして、これは非常に不可思議なことであります。

 

場所には必ずひとが居ます。自分を知り、自分の名を呼んでくれるひとが。

 

南無不可思議光

不動地に対する考察

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/1/31_1_126/_article/-char/ja/

 

真宗では往生の道程をあまり聞かない。

 

歓喜地は出発点であり、到達点ではない。

 

まだ先があり、その深さは底知れない。

 

十地経というお経があり、僕自身はこのお経から大きな示唆を頂いたと思っている。

 

七地沈空の難という、自分ではどうにもならない停滞のことも書いてある。

 

そして、それらは諸仏方の後押し、導きで転じられるという。

 

そのことを『法流門』にみちびきいれたまうと書いてある(十地経荒牧典俊訳中央文庫p245)そして、智慧を実現するための種々なる道『起知門』を授与したまう、とも(同上p248)

 

 

評価、結果を得るために随分、無理をしてきた。そして、そうならないことに腹を立て、妬んできた。

 

まぁ、今になって思うが、評価は自分の思い通りにはならない、だから、そこに注目しても仕方ないのだ。

 

他者を変えることはできない。変えられることに自分の労力を集中する。集中とは行ずるということ。

 

僕はサラリーマンで、かつ、間接部門に所属しているため、昇格を目指していますが、なかなか芽が出ません。

 

一方で、よくわからない人事で、昇格する人がいるわけです。

 

ここで考えるわけです。なんだこれは?と。

 

やらなくても、結果を残さなくても、上手く立ち回れば昇格できるなら、自分は何のために苦労しているのだろう、と。

 

実際、新しいことをするためにリスクを負い、完遂しても、何もせず同じことをし続けている人と評価が変わらないわけです。

 

むなしい、わけです。

 

しかし、ある時思い立つわけです。

 

あぁ、これは再現性の問題である、と。

 

そして、昇格しても力がなく、結果が出せず、落ちていった人々を目にしてきたじゃないか、と。

 

なぜ昇格したいか、というと、物事を変えたいからです。物事を変えられる可能性が観えるのに役職が十分ではないので、そこに介入できません。

 

上の役職を飛び越えて行じることは、サラリーマンには困難です。慎重かつ確実にやり遂げなければなりません。

 

なので、目先の評価は捨て、具体的な足跡を遺していくことにしました。

 

つまり、変化の歴史、行を繰り返していく、繰り返しつつ、掘り進めていく、という感覚です。

 

歴史は通り過ぎたことなので、現在には否定することはできません。

 

現在の人がどれだけ足掻こうか、既に成し遂げてきたのだから、無意味です。なぜなら、結果として既に在るから、です。

 

これを虎視眈々と狙い、行じています。

 

自分への報酬も大切ですが、やはり、有縁の人々の骨折りがきちんと報われ、結実し、成果を分け合うことが更に大事です。

 

自分だけがいい目にあえばいい。

自分だけが助かればいい。

 

こういうことは極めて狭小であり、視野狭窄と言わざるを得ません。

 

これは独自の考えかもしれませんが、もろともに、ということを教えるために我執というはたらきがある、と思います。なので我執ははたらきが歪んだ状態です。

 

 

なぜこう思うかといいますと、マナ識即ち我執が平等性智に転じると唯識では教えられており、そのことを折にふれ、繰り返し仄かに実感しているからです。つまり、元来は、衆生を自分に徹底的に教える識がマナ識ではないかと推測しています。

 

南無阿弥陀

 

2022/07/18追記

 

ブログの中では、八地という書き方で、不動地を考えることが多かったようです。

こう、上手く表現できぬのですが、七地までは、行者の意図があると思うのです。

 

しかし、それ以降は、意図する必要がなく、流れていくまま、思いつくままに、

 

教化頂くという感じが致します。はからいなく、流れていくということが非常に大切であり、ある意味、もう一度決まる訳です。

 

自身は決定的に凡夫である、ということが。

 

決まり続けていくのが、八地、不動地以降の教えに書かれている気が致します。