いしかわらつぶての如くなるわれら、という言葉があり、阿弥陀仏の本願の対象は十方衆生と云われます。
時に、現実では、僕らの言葉や思いが間に合わない出来事が起こりますし、身に覚えのない理不尽がこの身に降りかかります。
その時に思うわけです。何だこれは、と。なぜあんなことを起こすんだ、とか、なぜあんなことが起こるんだ、と。
そして、考えるわけです。
(僕らに共通するものは、皆かよわい凡夫であるということだけ)で、ほかに共通するものは何もないのではないだろうか、と。
凡夫とは久遠の業を背負い、縁に催されて、動き回り、そして、今ここに立ち尽くす者であります。
それは誰のことなのか、という問題が、宗教哲学の問題ではないかと思う。
この世界では、どれだけ清廉潔白に生きたとて、必ず、理不尽に苛まれます。
それは、老病死であり、老病死は生から派生しているものであり、生は無明にその根をもっている。
無明の存在が凡夫ということであり、それは自分であるという自覚、お照らしを蒙ることにおいて、
無明が無明のまま落ち着く、無明が無明であることを憎むでもなく、忌避するのでもなく、落着する、ということがあります。
阿弥陀仏のことを畢竟依とも云われます。畢竟依とは、最後の拠り所であり、本願に出遇うとは、無明が所在を得たということではないかと考えます。
即ち、場所を得たから落ち着くのであります。浄土ということは所在の問題ということを示唆しているのだろうと、折にふれ思うことであります。そして、これは非常に不可思議なことであります。
場所には必ずひとが居ます。自分を知り、自分の名を呼んでくれるひとが。
南無不可思議光