むなしさとともに

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不動地に対する考察

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/1/31_1_126/_article/-char/ja/

 

真宗では往生の道程をあまり聞かない。

 

歓喜地は出発点であり、到達点ではない。

 

まだ先があり、その深さは底知れない。

 

十地経というお経があり、僕自身はこのお経から大きな示唆を頂いたと思っている。

 

七地沈空の難という、自分ではどうにもならない停滞のことも書いてある。

 

そして、それらは諸仏方の後押し、導きで転じられるという。

 

そのことを『法流門』にみちびきいれたまうと書いてある(十地経荒牧典俊訳中央文庫p245)そして、智慧を実現するための種々なる道『起知門』を授与したまう、とも(同上p248)

 

 

評価、結果を得るために随分、無理をしてきた。そして、そうならないことに腹を立て、妬んできた。

 

まぁ、今になって思うが、評価は自分の思い通りにはならない、だから、そこに注目しても仕方ないのだ。

 

他者を変えることはできない。変えられることに自分の労力を集中する。集中とは行ずるということ。

 

僕はサラリーマンで、かつ、間接部門に所属しているため、昇格を目指していますが、なかなか芽が出ません。

 

一方で、よくわからない人事で、昇格する人がいるわけです。

 

ここで考えるわけです。なんだこれは?と。

 

やらなくても、結果を残さなくても、上手く立ち回れば昇格できるなら、自分は何のために苦労しているのだろう、と。

 

実際、新しいことをするためにリスクを負い、完遂しても、何もせず同じことをし続けている人と評価が変わらないわけです。

 

むなしい、わけです。

 

しかし、ある時思い立つわけです。

 

あぁ、これは再現性の問題である、と。

 

そして、昇格しても力がなく、結果が出せず、落ちていった人々を目にしてきたじゃないか、と。

 

なぜ昇格したいか、というと、物事を変えたいからです。物事を変えられる可能性が観えるのに役職が十分ではないので、そこに介入できません。

 

上の役職を飛び越えて行じることは、サラリーマンには困難です。慎重かつ確実にやり遂げなければなりません。

 

なので、目先の評価は捨て、具体的な足跡を遺していくことにしました。

 

つまり、変化の歴史、行を繰り返していく、繰り返しつつ、掘り進めていく、という感覚です。

 

歴史は通り過ぎたことなので、現在には否定することはできません。

 

現在の人がどれだけ足掻こうか、既に成し遂げてきたのだから、無意味です。なぜなら、結果として既に在るから、です。

 

これを虎視眈々と狙い、行じています。

 

自分への報酬も大切ですが、やはり、有縁の人々の骨折りがきちんと報われ、結実し、成果を分け合うことが更に大事です。

 

自分だけがいい目にあえばいい。

自分だけが助かればいい。

 

こういうことは極めて狭小であり、視野狭窄と言わざるを得ません。

 

これは独自の考えかもしれませんが、もろともに、ということを教えるために我執というはたらきがある、と思います。なので我執ははたらきが歪んだ状態です。

 

 

なぜこう思うかといいますと、マナ識即ち我執が平等性智に転じると唯識では教えられており、そのことを折にふれ、繰り返し仄かに実感しているからです。つまり、元来は、衆生を自分に徹底的に教える識がマナ識ではないかと推測しています。

 

南無阿弥陀

 

2022/07/18追記

 

ブログの中では、八地という書き方で、不動地を考えることが多かったようです。

こう、上手く表現できぬのですが、七地までは、行者の意図があると思うのです。

 

しかし、それ以降は、意図する必要がなく、流れていくまま、思いつくままに、

 

教化頂くという感じが致します。はからいなく、流れていくということが非常に大切であり、ある意味、もう一度決まる訳です。

 

自身は決定的に凡夫である、ということが。

 

決まり続けていくのが、八地、不動地以降の教えに書かれている気が致します。