最近の課題は、「わが身」と「煩悩具足の事実」について、です。
しかし、これについて、真宗聖典(七祖編)を拝読し、少しずつ
学ばせて頂いています。
結論は「空」であり、一切のものは「縁起」によって生起している、
ということを教えて頂きますが、わが身には何のことやら、分からないのです。
どうしても、わたし、という意識、あるいは、大事な人が存在している、
これからもずっと居てくれる、としか、よう思えないのです。顛倒とか、
煩悩具足やとか、言われても全然分からんのです。本当に。
仏法を聞かせて頂くということは、「汝は間違いなく凡夫であるぞ」と
いうことを聞き続けることであり、
それは、如来に対して、
「はい、おっしゃるとおりです」と頭を下げ念佛申すことであり、
「自分は凡夫だけど、本当に凡夫でよかったな」としみじみ、味合わせて頂く歩み
である、のような気がしています。
そして、これはこれでいいのだと思っています。
そこに「わたしの想い」を挟む必要一切はない。また、挟めない。
事実は一切の物事を先行している。
この言葉が最近、特に味わっている言葉です。
本願と共に。南無阿弥陀仏
追伸 しかし、自分はあてにならぬものを信じなければ、
あるいは、罪を感じなければ生きられないものであるという事は、
本当にかなしいことだと思います。しかし、この裏に如来の慈悲がまします故に、
向かい合いたいと、何とか立っているようなそういう気持ちです。