個人的な話になりますが、火事にあいまして、もう一ヶ月ほどたちましたが、それまで考えていたこともあったわけですが、火事にまぎれて感想がどこかへ飛んでいっちゃって、今さら思い出そうとしても、出てこんのですがね。しかし、火事ということについて感想があるんてす。
これは隣りから火が出たものですから、道義上の責任はないわけです。つまり、道義的責任からは自由なんですが、事件に関係した責任はあるんじゃないか。火事にあったということに、やっぱり一つの責任があるんじゃないかと。そうでないと、それは夢をみていたということになる。それが現実であるかぎりは、その現実に連関するというかぎりの責任があるんじゃないか。それで、ぼくは、なるほど、宿業というのは、こういうものかなぁと思ったんです。
(安田理深先生、大乗の魂、大地の会、p42 )
鸞音忌という曽我量深先生を追悼する機会に安田理深先生が講義された講義録が、大乗の魂という本にまとめられており、そこから抜粋した文章が先のものです。
自分は、この世に生まれたいと思って来た訳ではありません。気がつけば世の中に居たという感覚をずっと持っています。
むなしさに気がついたのが、1986年ですから、物心ついてから35年以上が経ちました。今に至るまで引き摺っているものがむなしさであります。
僕におけるむなしさとは「人生における手応えのなさ」と言い換えてもいいです。今も同じです。
生きてきて、理不尽なことも沢山ありました。他者を傷つけてしまった後悔も抱えていますし、逆に傷つけられたこともあります。生きること、学ぶことの意味のわからなさも苦しかった。
また、生業にしている仕事も、はじめから成りたいものであったものではなく、たまたまできたことを続けてやってきて、今もやっているという感覚です。
そして、長年誰かが担当してきた役割を今、自分が担い、その立場に置かれている。
そして、なぜ自分が、今、ここに、こうして居るのだろう、考えてもちっともわかりません。
老病死の原因は生です。生まれたことから派生する因果と考えます。
何とか繁忙期を越えたのですが、身体に負荷がかかり、右腕に神経痛があります。ひと月以上、痛みがある状態は正直、不快ですが、もう暫く耐えねばなりません。
身に覚えがないことが起こってきた時、自分は宿業というものを深く感じます。
これは、誰かに用いてよいものではなく、自分にのみ用いることができる言葉であると思います。
宿業ということは、存在の歴史であり、存在の背景であり、非常に深く、非常に重い、そういうものを背負い、生きているものを人間というのだと思います。
VEフランクルは人間のことを「ホモパティエンス」と表現したと聞きます。
「苦悩する者」のことを「人間」というのであれば、僕は今「人間」という存在を生きているのだろうと思う。
ここに上手く言葉に表せない責任を感じる。
暫く大乗の魂という本を手がかりに、感じたことをまとめたいと思います。
南無阿弥陀佛