思い通りに生きていたら、どこまで人間は転落していくかわからんのです。
そこに、壁にぶつかるということが、一つの転換になる。
悲劇ということは危機である。しかし、それは結論ではない。
悲観してしまったら結論になってしまうのです。悲観するのは煩悩です。
悲しいことが転機となって人生が新しく転換してくる。見方が変わってくる。それが業をこえるということです。
略
人生には結論などというものは、全然ないのだというのが、仏教の無我論です。仏教の存在論である。これは非常に大事なことですね。諸法空ということは、そういうことをいうのです。
(安田理深先生、大乗の魂、大地の会、p54)
苦悩が押し寄せてくる、或いは、コンプレックスが心を占有すると、視野狭窄に陥ります。
なぜ自分だけがこんな目に遭わねばならないのか。
人生には何度か存在を脅かすほど苦悩に陥ることがあるように思います。自分も経験があります。
苦悩を直視するのはしんどいことであり、大抵の方は気を逸らし、正気を保ちますが、時に全てを奪われたり、大事にしてきたものが尽く本当にたのむべきものでなかったことが身に沁みて暴露される機会が起こります。
それでも。
安田先生のお言葉によると、人生に結論などないのだ、と。
僕の言葉でいえば、部分と全体は違う、
立ち止まらなければ視えない景色がある、と言える。
凡夫とは、脆弱な、どこにでも転がっているような、役に立たなくなると捨てられるような、そういう取るに足らない者のことを指すのだと思いますし、それが自分であります。
それでも、汝を待つ、我が名を称えよ、と如来は仰っている。それが南無阿弥陀佛。
老病死を具足した身を今ここに生きている。それでも、あまたのいのち、あまたのひとに支えられ、ここまでいのちを永らえてきた。
いつまで生きていくのかは、わかりませんし、この先、どういう人生が続くのかもわかりません。
本当のところ、自分が誰で、どこから、何のためにここへ来たのかもわかりません。こういうことを無明といいます。
無明の存在が自分であろうと実感します。
無明なる自分を照らし、汝無明よと知らしめて下さるのが、浄土の光であり、これを南無阿弥陀佛、本願の念佛、念佛の信心と申します。
人生に結論はない。悲観するのは煩悩なのだ、という言葉を聞き、なるほどと思うことであります。
世間の道は確かに総て滅んだが、出世間の光が今ここに確かに届いており、念佛の声として聞こえて下さる。念佛を聞いていく道、念佛のいわれを聞いていく聴聞の道が与えられているのではないか、こう思うことであります。
南無阿弥陀佛