むなしさとともに

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南無阿弥陀佛のいわれ

然ればすなわち弥陀如来

 

法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、

 

造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。

 

ただ称名念仏の一行を 以て、その本願としたまえるなり。

(『選択本願念仏集』第三章)

 

 

南無阿弥陀佛の謂れを聞け、弥陀を憑め、と聴聞させて頂く。

 

 

なぜ称名念佛ただ一行を法蔵比丘はお選びになったのか?

 

 

この法然聖人のご文にその結論が凝縮されている。

 

平等の慈悲、普く一切を摂せんが為に。

 

この一文である。

 

このご文の心を尋ねると、全ての有情をもれることなく、あますことなく、

 

必ずわが浄土へ生まれさせて佛に仕上げてやりたい、という御心。

 

全ての有情とは、わたし一人である。わたし一人が、どんな境遇におかれても、

 

何をしても、何を思っても、関係なく、

 

わが願力にて真実報土へ往生させる、もし生まれずば誓うて、

 

佛に成らじ、との思し召し。

 

何の文句があろうか?平等の慈悲、必ず助ける、という御心。

 

この御心が念佛の信の相をあえてとって下さっている。

 

その御心を信頼するのである。その御心を聞くのが聴聞である。

 

念佛は如来の直説法と聞く。専修念佛一行。これを一期貫くのである。

 

南無阿弥陀

仰せに従う

なんぢよくこの語を持て。

この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。

観無量寿経、註釈版聖典117頁)

 

 

 

持て(たもて)ということは、称え続け、聞き続け、一期を貫けの仰せ。

 

善知識や菩薩方の教えも有難い。

釈して下さらねば、御心が分からないから。

 

しかし、如来と菩薩は境界を異にする。佛佛相念、唯佛独明了。

涅槃は佛しか分からないのである。

 

最終的に、親鸞聖人も、

 

ただ仏語を信じ決定して行に依ると仰る(愚禿鈔

 

即ち、このこと一つをたもての仰せ。

 

親鸞聖人は僕自身のわが身に先立って、現実を、煩悩を恐れるなと

 

ご自身の身とご生涯を以って念佛往生を示して下さった。

 

本当に信頼に足る方だと身に沁みて思う。

 

無知無能煩悩具足我執無明の者よ、極重悪人よ。

 

ただ無量寿佛の御名を称えよが、三世十方諸佛の仰せ。

 

佛説とは如来のお言葉である。

 

それは三世十方微塵世界を貫く大悲の智慧である。無常を超えたおはたらきである。

 

仰せに従う、ただそれだけでである。

 

南無阿弥陀

 

 

聞と行

不思議なご縁で新年を迎えることができました。有難うございます。

 

本当は一日一日がかけがえのない大切な一日に違いないけれど、

どうしても年末年始は少し特別な感を抱いてしまいます。

 

今年の自分の課題は「聞」「行」であります。

 

聞とは、ひたすら聞く。念佛を聞く。念佛のいわれを聞く。大悲を聞く。

善知識、同行の方との縁を大切にすることを含んだ聞であります。

 

行とは、真実信心というものがまことに届いたならば、そこに何らかの相が

生まれなければならないと感じています。もしも、そこに何もなければ、

それは死んだ信でありましょう。信とは躍動であり、活動の源であります。

 

相とは形、すなわち行であります。

 

念佛を聞く、聞名の一行が核であることには間違いない。しかし、

そこを起点基軸として、連続無窮に新たなものが創出されていかねばそれは

真実信心ではないと思われます。

 

その相とは、特別なことをするのではない。目の前の人に向き合う。

分からなくても話を最後まで聞く。自分にできることに関わる。

 

それを継続持続させる。諦めない。腐らない。逃げない。受け止める。

 

社会生活、人生において、当たり前のことだろうと思いますが、

この当たり前のことを支えるには信が必要であります。

 

揺ぎ無い信とは如来の信、念佛往生を信じる信心であります。

願力より発起回向された如来より賜りたる信であります。

 

今年一年のテーマとして、自分はこの二つを手がかりにやっていこうと思います。

 

佛法とは特殊なものではありません。眼前直下、ごく当たり前のことであります。

 

どうぞ今年も共に聴聞させて頂きたく存じます。

 

南無阿弥陀