むなしさとともに

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聞くことまことに尊し

聞くばかり。

 

言葉を聞く。話を聞く。仰せを聞く。

 

有縁の方をただの人と思うな。

 

目の前の人は法蔵比丘が必ず佛に仕上げるという願をかけた人なり。

 

よって、ただびとではなく、いずれ必ず如来になる人なり。

 

佛の説法と思って聞けば、琴線に触れる言葉が隠れているはずだ。

 

自分の話など要らん。ただその言葉を聞き、言葉の響きから、

 

心を頂く。南無阿弥陀佛まことに尊し。念佛まことに不可思議。

 

今年も生きながらえることができました。

 

来年ももし命ありましたら、またともに聴聞させて頂きます。

 

南無阿弥陀佛 自分の声や言葉を見聞するのは、直の如来の説法なり。

 

ご縁を賜り、誠に有難うございました。ではまた。

ナントモナイ

心境に変化が起こるのか?   ナントモナイ

日常が有難くなるのか?    ナントモナイ

一体何が助かるのか?     ナントモナイ

念佛して何になるのか?    ナントモナイ

 

一体何がどうなるのか?    ただ念佛を称え、称えれば耳に聞こえる。

               耳に聞こえる念佛は、タスケルの仰せと、

               よきひとが教えて下さる。

               自分の心身に囚われず、ただよきひとの仰せを

               そのまま聞いて念佛を申すよりほかに

               一切別の仔細なきなり。

 

お前は一体何か?       ただの人、佛は凡夫と仰り、聖徳太子は凡人と

               仰った。それが正しく自分である。

 

なんまんだぶなんまんだぶと聞こえる。聞こえるままが如来の仰せ。

仰せが聞こえたならば、そのまま頂けばいい。

助からぬ者だからこそ、必ず助け下さる如来の大悲に打ち負かすのみ。

 

南無阿弥陀

仰せが佛法

自分には他力は分からない。不可称不可説不可思議の故に。

 

ただ、お前を必ず助けるぞ、間違わさぬぞの仰せがただただ嬉しい。

 

仰せとは、今わが口に称えさせられ、耳に聞こえてくるお念佛。

それ以外にない。故に勅命と親鸞聖人は仰った。

 

お念佛が聞こえるより他に信心はなく、

信心とはただ如来のわが名を称えよの仰せに随っている相より

他に特別なことはない。

 

ただほれぼれと弥陀のご恩、法蔵比丘の骨折を憶念するばかり。

 

自分が助かるか助からぬか、地獄へいくか、浄土へ往生を遂げるのか何も知らない。

 

今耳に聞こえる南無阿弥陀佛がタスケルタスケルの仰せぞよ、の善知識の教えに

信順するばかりで文句はない。

 

なぜなら、自分は往生成佛に関して全く無知無能なのだから。

 

自分の存在そのものを無明という。

 

故に無明のものは、ただ助けるぞやの如来の仰せを聞くばかり。

 

聞くより他に用事なし。仰せが佛法。わが身わが心に微塵の用事なし。

 

自分には佛を憑む心がない。

 

故にご回向の南無がついている。南無とは憑む機のことである。

 

憑む機までご成就の南無阿弥陀佛。もはや文句あるまいな。

 

今、口に称え、耳に聞こえ、骨に響くのが、無限大悲の南無阿弥陀佛。

 

まことに親切の極みなり。決して助からぬ機を必ず助けるご本願の力強さよ。

 

若我成佛 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚

 

南無阿弥陀