むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

本当に何もわからない

どうすればいいのか、とか、

あの時、ああすればよかったのかとか、

そういう思いがわいてくる。

 

日常の中でも、どちらがよいのだろうか、

この言葉を使ったほうがよいだろうか、色々と慮る。

 

定善を息慮凝心といい、慮りを止め、心を集中すると伺う。

散善を廃悪修善といい、心が乱れていても、善を修めると伺う。

 

息慮凝心だから、自分にはとてもできない。思いはとめどなく

絶えずわいてくる。集中することができない。

 

悪をやめることもできず、本当は何が悪で、何が善なのかさえ、

分からないのだから、これもできない。

 

臨終に正念に住することも、自分にはできない。

日常で、いつも迷っているようなものが、どうして、臨終に、

心穏やかに、佛を念じることができるのだろうか。とてもできない。

 

何一つできないし、何一つわからない自分のために、

如来がまことの智慧で選択した行が、選択本願のお念佛である。

 

汝、我が助けるで憑め。その持ち合わせのまま、我に任せよ。

我が名を称えるばかりで、まるまる引き受ける。

 

汝には、何一つ要求しない。期待しない。ただ我が名を称えよ。

 

本願招喚の勅命。仰せに従う。よきひとの仰せに従う。

 

たとえ法然聖人にすかされまいらせて、念佛して地獄におちたりとも、

さらに後悔すべからずそうろう(歎異抄第二章)

 

いずれの行もおよびがたき身なれば

とても地獄は一定すみかぞかし(同上)

 

親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの仰せをかぶりて信ずる外に別の仔細なきなり(同上)

 

自分にとって、歎異抄第二章は、本当に親鸞聖人のおっしゃった言葉、

響きを感じる。

 

何にもわからなくてもいい。ただよきひとの仰せをそのまま頂き、

ただ念佛し、耳で聞き、口に称えるばかりである。

 

ほかに何も知らないし、何一つわからない。ただよき人の仰せを

頂くほかに何もない。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。