むなしさとともに

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追記あり 決定要期

本願を信じ、念佛を申す。

 

自分自身は、自分の臨終の後に、

どこへいくのか、どうなるのか、分からない。

 

ただ、汝、我が名を称えよ、称えるばかりで、必ず助ける、という

仰せをそのまま聞いて、お念佛申すだけである。

 

特別なことは何もないし、有難い心境、例えば歓びが身に満ちるとか、

そういうことがずっと、続くとかでもない。

 

歓びがあるとか、ないとか、有難いとか、有難くないとか、

自分には一切関係がない。用事がない。

自分は主体ではなく、一方的な客体だからである。

 

ただ引き受けるの仰せを聞き、仰せのとおりお念佛申す。

 

どこへ行くかはわからないけれど、どこへ行っても仕方のない身。

連れて行くとおっしゃったところに行かせて頂けばいい。

とても文句は言えないのだから。

 

本願とともに。なむあみだぶつ。


2020.05.22追記


特別な存在になりたかったが、


凡夫に過ぎなかった。


凡夫というは、無明煩悩われらがみに


みちみちて欲もおおくいかりはらだち


そねみねたむこころおおくひまなくして


臨終の一念に至るまでとどまらず


きえずたえず。こう親鸞聖人は


仰っている。


たとえ信心決定しても凡夫であることが


変わることではない、ということです。


即ち


信心は自他を分ける印にはならない、


それどころかいよいよ助からぬ自身を


明らかに照らし、われもかれもともに


助けられるよりほかに道がないじゃない


かと平等を拓いて下さるものでないかと


思うのです。


自分はいよいよ助からない者である。


全く仏法が身につかない存在である。


だからこそ、本願がお前を救わずば


おかないと、念佛を申せと。


こういうことが、念佛往生の中身で


あろうと思うのであり、即ち、


決定要期ということでありましょう。