むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

誰かのせいにするのは終わりだ

誰かに何かを期待していた。

きっとわかってくれるだろうと。

わかってくれない彼らが悪いと。

随分そうしてきた。

もうそういうことは終わりだ。

誰もわからまいが、自分はやる。

不完全だろうが、具体的に手を動かし、

汗をかく。

具体的に動く。心を動きで表す。

このこと以外、自分という存在を表現する

手段がない。

だから、

わかってくれようが、そうでなかろうが

関係がない。他者の問題ではない。


問われているのは自分がどうするかだ。

当たって砕けろ。砕けても砕けても、

砕けたから体解することがある。身に通す。

これを大切にしたい。


悪口と不満なら誰でもいえる。

じゃあ、君はそれに対し、どう足掻くんだい?

問題はこれなのだ。


心と言葉とすがたが一つであり、裏表がなく、

透徹している。如来とはそういう方でしょう。


主体性の回復、自分自身に引き当てて

考えていきたい。

煩悩に引きずられつつ、煩悩にも涅槃にも

こだわらない。とらわれない、とらわれても

とらわれていることがわかる。見える。

見せて下さる光がある。だから、見える。

その光を信頼する。このはたらきが光明であろう。

光明が真実であり、僕は不実である。不実を

不実と照らすはたらきが真実であります。

南無阿弥陀