誰かに何かを期待していた。
きっとわかってくれるだろうと。
わかってくれない彼らが悪いと。
随分そうしてきた。
もうそういうことは終わりだ。
誰もわからまいが、自分はやる。
不完全だろうが、具体的に手を動かし、
汗をかく。
具体的に動く。心を動きで表す。
このこと以外、自分という存在を表現する
手段がない。
だから、
わかってくれようが、そうでなかろうが
関係がない。他者の問題ではない。
問われているのは自分がどうするかだ。
当たって砕けろ。砕けても砕けても、
砕けたから体解することがある。身に通す。
これを大切にしたい。
悪口と不満なら誰でもいえる。
じゃあ、君はそれに対し、どう足掻くんだい?
問題はこれなのだ。
心と言葉とすがたが一つであり、裏表がなく、
透徹している。如来とはそういう方でしょう。
主体性の回復、自分自身に引き当てて
考えていきたい。
煩悩に引きずられつつ、煩悩にも涅槃にも
こだわらない。とらわれない、とらわれても
とらわれていることがわかる。見える。
見せて下さる光がある。だから、見える。
その光を信頼する。このはたらきが光明であろう。
光明が真実であり、僕は不実である。不実を
不実と照らすはたらきが真実であります。
南無阿弥陀佛