むなしさとともに

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キェルケゴールの日記

根本的なことは、私にとって真理であるような真理を発見し、

 

私がそれのために生き、

 

かつ死ぬことができるような理念を発見することである。

 

いわゆる客観的な真理などを発見したところで、

 

それが私にとって何の役に立つというのだろうか。

 

(哲学の歩き方p142 竹内均 ごま書房)(22歳ころの日記とのこと)

 

たまたま手に取った本に琴線に触れる言葉があったので、

 

忘れないように記録する。

 

むなしさの根源は、私にとって真理である真理に出会いたい、でも、

 

それが満たされない、というものであったのだろう。

 

この身がある限り、本当の出会いが実現されることはない。

 

本当の出会いとは、往生浄土、成佛である。それは今生では決して、

 

成し遂げられることはない。この身が滅ぶとき、必ず遂げられると定まっていると

 

よきひとから聞かせて頂くばかりである。

 

どうしても真理に到達できないわたしのために、真理のほうから、

 

名となり、ことばとなり、今ここまで来てくださり、念佛を申す身にまで

 

仕上げて下さったこと、まことに如来のひとりばたらきである。

 

西洋の思想家、哲学者も結局のところ、親鸞聖人と同じことを

 

求めておられた、そして出会った人々は、如来のことを讃嘆しているのである。

 

彼らもまた諸佛である。

 

南無阿弥陀

 

 

往生礼讚

もし衆生ありて阿弥陀仏を称念すること、

 

もしは七日および一日、下十声乃至一声、一念等に至るまで、

 

かならず往生を得。この事を証誠したまふが故に護念経と名づく。

 

真宗聖典 七祖編p712 往生礼讚 後述)

 

わが名を称える者よ、汝よ、流転したくても流転させんぞよ、

 

わが浄土に必ず往生させるが弥陀の本願。諸仏方の証誠ではまだ足りませぬか。

 

諸仏証誠護念の有り難さよ。先達の教化、ことばの尊さよ。

 

この一声が弥陀じゃぞよ。聞こえるままが助けるの仰せ。ただ称え、

 

聞くばかり、わが思いはさしおくばかり。

 

南無阿弥陀

 

ただ助けるの仰せが今は嬉しくたのもしい。

わが名を称えよ

わが名を称えるばかりで、必ず汝をわが国に生まれさせる。

 

どうかわが誓願を信じてくれよ、やるせない大悲が声になり、

 

念佛往生を告げ知らせるのが、南無阿弥陀佛。

 

わが名を称えるばかりで助ける。ほかに何もいらない。

 

わが心、わが身に微塵の用事なし。

 

如来が助からぬものに、何を仰っているかを聞き開くのが聴聞である。

 

何を仰っているのか?タスケルタスケルの常の仰せである。

 

それが今、ここで、口に称え、耳に聞かしめられる南無阿弥陀佛の一声なり。

 

南無阿弥陀