むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

本願海

海には波がある。

 

海はとどまらない。流れ続ける。

 

苦しみは絶えない。自分の浅ましさも止まない。

 

しかし、本願は大悲の海であり、智慧が満ちている。

 

智慧の波によって、わが身と煩悩を遠くにさらっていく。

 

みえなくなる。すぐに忘れる。執着しない。どうでもよい。用事がない。

 

如来の智慧よ、如来の大悲よ。本願の尊さよ。

 

すべての衆生が往生を遂げるまでやむことのない大悲の御言よ。

 

聴聞とは如来が何を仰っているかを聞くだけであって、

自分がいかに反省しようと、所詮凡夫の妄想である。

それを如何に見ようとも、自分の分かる程度のものに過ぎない。

 

それはいらない。如来が何を仰っているかだけを聞く。

 

それを聴聞という。

 

南無阿弥陀

佛智疑惑

どうしても如来のことを、如来の教法を信じることができない。

 

いくら聞いても、いくら善行を行っても、何にも変わらない。

 

どうしても煩悩が雑ざる。そもそも善行かどうかを決める主体は自分であり、

 

善行である根拠がない。何も分からないではないか。

 

世間のことは自分で何とかせねばならないが、わが後生に関して、

 

わが力一切及ばず。どうすればいい?

 

構わない、汝わが名を称えよ。すべて知っている。

 

これが無碍光であり、徹照すると親鸞聖人は慶んでおられる(弥陀如来名号徳)

 

すでに想定済みである。その御心が五劫思惟の相をとっておられる。

 

佛智疑惑の者よ。そのまま貫く。何も問題ない。

 

わが名を称えるばかりで必ず往生させる。

 

必ず助けるの御心が若不生者不取正覚であり、兆歳永劫の相である。

 

わが本願の力無窮なり。そのままなりで助ける。

 

本願の御心を告げ知らせるのが念佛の相であります。

 

どうしても我らを往生させたいのが本願の御心でありました。

 

南無阿弥陀

唯信佛語決定依行

愚禿のお言葉である。

 

ただ佛語を信じ、決定して行に依る(註釈版真宗聖典P522)

 

自分の場合、最後にとどめをさされたのは、佛説であるということだった。

 

凡夫の言葉ではなくて、佛のお言葉である。

 

そのお言葉が「無量寿佛の御名をたもて」ということであった。

 

即ち念佛せよ、ということである。

 

故にわが力及ばず、佛説と仰るのであれば、もはや従うより外なし、

 

という転換があった。

 

今はもうよろこびもどこへやら ただ如来の仰せに従うばかり

ただ称えただ聞くばかりで よろこびも用事なし ただ助けるとばかり聞く

 

ただ佛語を信じ、決定して行に依る。行とは即ち大行、無碍光如来

 

御名を称えることであり、称えれば必ずわが耳に聞こえる。

 

もし耳に聞こえることあたわずば、骨への響きを聞くべし。

 

その響きは、必ず助けるという御心であり、釈迦・弥陀の御心に

 

信順するまでに仕上げられたのが、一声の念佛であった。

 

どう思うとか、どう頂くとか、そんなものは用事なし。微塵もいらない。

 

ただくちに称え、耳に聞こえるこの念佛が、

もうすでに本願のおはたらきになっておられる相だとは、知らなかった。

 

南無阿弥陀