むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

諸々の衆生とともに

メダカを飼っています。

 

彼らは泳いでいるだけで、生産的だと言えないものでしょう。

 

しかし生産的とはなんだろうか?

 

僕は知らない。わからない。知りたくもない。

 

彼らが死んでしまうとただ寂しいし、ただ悲しい。

 

ただ共にいれたらそれでよい。何人も僕と彼らの間に介入することはできない。

 

彼らをすべて往生させないまま佛になることはできない。

 

共に往生成佛したいのであります。

 

存在とはかけがえなきもの。

 

ただし自分はその存在を傷つけ、肉を貪り、いのちを奪わなければ存在できぬもの。

 

救われようのない存在。照らして下さる念佛の光。

 

南無阿弥陀

地獄を超える

地獄にいるとしよう。

 

なぜ地獄か。答える。希望を見出だせぬ故に。

 

地獄を超えるとは何故ぞ?答える。

 

我すでに光を蒙る。我すでに光を見出す。

 

光とは何ぞ?答える。如来なり。一切衆生なりと。

 

もはや地獄を恐れる必要はない。

 

何故に?一人ではない故に。如来常にまします。

 

如来智慧とは地獄を超えしむる大悲である。

 

地獄を超えるとは逃げぬこと。引き受けること。

 

如来は足となり大地となり、我らを支えたまう。

 

これを横超という。地獄もまた無常である。実相を観ずるに恐れるに足らず。如来法性は常住なり。

 

なんともない、ただびとの独り言。

 

南無阿弥陀

念佛に何度でも帰れ

迷いは死ぬまでとれないと親鸞聖人は仰る。

 

だからこそ助けるの仰せ、即ち南無阿弥陀佛、念佛に帰れ。

 

そこにはいつでも大悲が待っている。

 

何度でも信の一念を繰り返す。

 

難儀で救われようのない現実を堪えしむる、

 

これが念佛の大悲である。

 

南無阿弥陀