むなしさとともに

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追記あり 煩悩が胸を焦がす

年末年始に考えたことが現実に起きた。

 

不相応の出来事であり、個人的には

 

理解も納得も全くできない。

 

何故ならその理由が明瞭かつ筋道の

 

通ったものではないからだ。

 

明らかに理不尽である。

 

今、妬みの煩悩が胸にある。

 

どうやら煩悩が起こる種を心身の底に

 

既に抱えていて、外縁に反応する形で

 

具体的に現れてくるようだ。これは起こすの

 

ではなく、起こる。しかし、久遠の昔に自分がやらかしたことであるが、

 

今ここにいる自分からしたら、一体

 

どれだけの業種子が蓄えられているのか

 

皆目検討がつかない。

本当にどうにもならない。

 

煩悩の始末ができない。

 

だからこそ、わが名を称えよの仰せに

 

帰れと阿弥陀如来はおっしゃる。

 

ここに帰れ。だから、わが大悲は止まぬ

 

のである、と。

 

念佛はあってもなくてもよいものでなく、

 

どうしてもなければならぬものである。

 

本当に煩悩具足であり、まだ至り届かぬ

 

絶望が横たわっている。そこに至り、凝視

 

したい。

 

自分が本当に助からない存在であることを。

 

他者は既に助かっているかもしれない。

 

自分は全く助からないのである。

 

この一点を確かめ続けたい。

 

忍耐は練達を、か。

 

惨めな悔しさを心に切り刻む。忘れない。

 

南無阿弥陀

 

投稿して二時間。腑に落ちた。

 

どうやら特に意味はなく、慣例的な措置に

 

すぎない。今まで曖昧だったものを一度

 

可視化しただけである。

 

自分が憤ったのは、具体的実践の

 

ないものに評価が下ったと思ったからだった

 

が、腑に落ちるまで考え、自分の納得に

 

至れば次の手が撃てる。新しい発見だ。

 

誤魔化さず、しっかり煩悩を見つめ、

 

丁寧に悩み、丁寧に苦しむ、とても大切なことである。

 

 

投稿して丸一日。

 

 

とは言ってもやっぱり腹が立つ。

 

本当に凡夫であります。しかし、煩悩がない

 

とやる気も発奮も起こらないし、

 

人間関係も深まらない。本音で、面と面を

 

向かって話ができたのは、とてもよかった。

 

前に進もうと思う。生きるって、

 

本当に大変。


20.04.05追記


雪辱を晴らしました。


結果を出せたからです。このあとは、


自分だけの力ではダメで、如何に、


周りの人に力を借りれるか、気持ちよく


働いてもらえる環境や仕組みを創れるか


が問われます。


しかし、忍耐を学ぶことができたのは


とても勉強になりました。

 

 

無限なる反復

修道とは、修習。

習とは反復すること、連続することです。

 

中略 見が連続していくから修道です。

中略 見が修になって見を完成していくわけ

です。

 

中略 最後の修を通して完成された見は成仏

になるのです。信心成仏です。

 

このように聞くというのはただ聞き流すので

はなく無限に反復する。私は学問というのは

言葉から受けた感動を失わずに無限に反復

する以外にないのではないかと思います。

 

(安田理深先生 親鸞における救済と自証第一巻p129)

 

こういうお言葉に触れると、そうかと

 

改めて感動する。見道を何度も反復し、

 

助からない身に何度でも帰ることが、

 

いよいよ法の深信を明らかにする。

 

反復の道程が自分自身にとっては

 

具体的現実、

他者との関係性なのであります。

 

現実の所作、挙動にまで降りて下さるのが

 

南無阿弥陀佛であります。佛の方が

 

一切を佛縁に転じて下さる。

 

人は光。光と見いだせるか否かは自分次第。

 

本当に大切なことだと思う。

 

南無阿弥陀

悲しみの大地を踏みしめて

極重悪人唯称佛(正信念佛偈)

 

自分自身は決して助からぬ存在であり、

 

無有出離之縁と釘を打たれている。

 

だからと言って、自分だけの救いに留まる

 

ことはできない。そんなものが何になる。

 

見よ。この悲惨で悲しみと嘆きと疲労

 

空虚と差別と崩壊に満ちた眼前を。足元を。

 

何処にも助かった者がいないではないか。

 

念佛を頂いた者は信心を具体的現実に

 

表現し相を現し続ける責任がある。

 

相を現さなければ、浄土を如来を証する

 

ことができない、即ち衆生に届かないからだ。

 

どんなに些細なことでもいい。

 

空き缶を拾う。柔らかいことばをつかう。

 

耐え忍ぶ。学ぶ。試す。機縁の整った者には

 

専ら念佛を勧め、自身も専ら行ずる。

 

善知識に教えを請う。

 

これが具体的相の一欠片である。今自身が

 

試している現実である。

 

凡夫から逃げない。正面から立ち向かう。

 

悲しみを悲しみで終わらせない。

 

いのちを、煩悩をあとずさりなく、

 

燃やし尽くす。これが現世利益である。

 

課題を、問を生き続ける、途中で生き倒れて

 

も微塵の差し障りあることなし。

 

何も問題ない。今すでに往生の中にある。

 

往生は始りがあったならば、

 

必ず遂げられる。必至滅度。

 

南無阿弥陀