むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

続 現実へのかかわり、柔軟心成就

以前にブログに書いたことの顛末です。

 

端的には、希望する人がおらず、頓挫した、という結果になりました。

 

力不足です。これはこれ。

 

大事なことは(次)はどうするか?です。

 

いつまでも同じところに留まれる時間はありません。

 

時は不可逆的ですから。

 

 

僕は、教わってきたことを深める、多角的な学びを進めていきます。

 

具体的には以下のようになります。

 

レジリエンスについて、学びを進める。

 

生きていくのは大変で、耐え難いこと、辛いこと、悲しいことが起こってきます。故に柔軟さ、強かさ、しなやかさで、いなす必要があると考えます。

 

単に、耐え忍ぶというだけではダメで、耐えつつ、打開するための準備を進めていく、そして、機が熟すことが大事だと思います。

 

レジリエンスはいくつかの要素の複合体であり、その基本に、交流分析で教わったことがあるように思います。

 

【I'm ok.You are ok】

 

たったこれだけのことで僕は凄く楽になりました。あー、他者と違っても良いんだ、と思ったからです。

 

袂を分かってもいい。違ってもいい。自分は相手を否定しない。故に相手に自分を否定させない。否定してくるのなら、断固戦う。但し、僕からは否定しない。肯定もしない。

 

悟る、というのは、沢山のことを聞き、学び、覚えるというのではなくて、

 

瞬時に悟る、至る、このようなものではないかと思われます。転ずるというのは、瞬時に起こり得ます。気づけば、すでにそこに在る。ずっと在った。

 

見惑を断ずるのは一念である、と云われます。正しい見解、正見により一時に断ずる。

 

一方で、修惑という煩悩は暫時に断ずる、段階があるとのことです。唯識の中に教えられています。十地経も同じことが書いてあります。

 

レジリエンスとは、世間の技術であり、仏法と何の関係があるのだと言われるかもしれません。

 

平等智と差別智を円満に成就しておられるのが仏さまであると教わっております。

 

僕は、レジリエンスとは柔軟心成就と無関係ではないと思っています。そして、柔軟心成就は、世間の厳しい風雪、雨風、無関心を通して、鍛えられていくものであると感じます。

 

名刀は幾度も幾度も刀鍛冶に打たれ、炎を徹したからこそ、水が滴るような美しさがあるのでしょう。

 

三日月宗近は本当に美しい刀でした。もし、機会があれば是非ご覧ください。あの刀は別格だと思います。さすが、国宝ってね。

 

 

具体性のない、現実に展開されない仏法に何の意義があるのか、と思う訳です。独りよがりを脱していない。

 

 

誰も知らぬ、気づかぬ、存ぜぬ。

 

けれども、僕は柔軟心成就のために僕にできる範囲で行を続ける。学び続けていく。

 

真宗に遇うということは、一過性のものではなくて、遇い続けていく。

 

新たに知らされていく、念佛往生ということであります。

 

念佛往生は念佛成仏、必ず涅槃に至る。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦悩の起点 むなしさ

https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1493733589007036416?t=gBqwLV1YXWFsEFMP_YRn3A&s=19

 

むなしさ。

 

これが自分の苦悩の起点、出発点です。

 

物心ついた、記憶の始まりは幼稚園の頃です。

 

折り紙をみんなで折っていました。

 

僕は、チューリップしか折れないわけです。

 

なぜこのことが強く印象に残っているのか。

 

聴聞を通して考えたところ、行き着いたのが(意味の分からなさ)ということでした。

 

(意味の分からなさ)とは、特定のこと、特定の動作にとどまることではなく、生活全体の意味がわからない。

 

全く面白くもなく、手応えもない。なぜ折り紙を折らねばならない?何のために?わからない。

 

 

なぜ学校に通い、宿題をし、テストを受け、通信簿で評価されねばならないか。

 

全く意味がわからない。

 

子どもなので、言葉にすることができませんので、他者と上手くコミュニケーションが取れず、勉強もしないわけです。

 

自分で勉強しないので、成績も平均以下、ファミコンを与えられると、没頭する。

 

ゲームは楽しかったですね。一人で楽しめるので。

 

僕にとっての、むなしさの本質は(意味の分からなさ)であり、もう一つは(手応えのなさ)でした。

 

進学に伴う受験は嫌でも通らねばなりませんでした。なんやかんやで、一般的な進学を辿りました。

 

就職し、働く中で、それまで持っていた資格では力が及ばなくなったので、仕事をしつつ、夜間の専門学校に通い、上級の資格も取りました。実務も一通り経験しました。

 

しかし、転職し、別の場所へ行くと、全く通用しないわけです。

 

経理といっても、会社によって、システムが違いますし、分析も違う。扱う商材が違えば、原価計算の経路も違うわけです。

 

そして、努力する天才への遭遇で、心が折れるわけです。自分では太刀打ちできない、と。

 

これは自分の辿った道ですが、その本質は、手応えのなさ、であり、キリのなさでありました。

 

つまり、上には上があり、成就する、完全に求まった、充足ということが達成されない。

 

渇きが止まない、渇愛といわれるものの中で際限なく、流転し続けて行く。

 

十分でないかもしれませんが、現時点では、むなしさの中身をこのように考えています。

 

今も意味のわからなさと手応えのなさ、そして、際限のなさは変わりませんし、これらに押し潰されそうになります。

 

しかし、今はただ念佛を申す。念佛申しつつ、生活し続ける、聴聞させて頂く。

 

これだけで十分であり、意味があるとかないとか、メリットデメリットとか、仏法の中には入らぬのです。

 

真実という言葉の(実)の字は中身が詰まっているという意があると聞いております。

 

例えば、蔵があるとします。その中の空間に、芥子の実が四方八方のすべてにぎっしり埋まっています。そうすると、その中に、芥子の実以外の何かを入れたくても入らない。隙間がない、からです。余地がない。

 

仏法、南無阿弥陀佛とは実、われらを遍く照らす大悲の光明であります。

 

如来が仏法を展開する主体であり、われらは仏法が仏法のとおりはたらく客体であります。

 

主体は主体であり、客体は客体です。

 

明確に分かれる、分けられるという功徳が智慧のおはたらきの一分であります。

 

もう少し続けて、苦悩を考えます。

 

南無阿弥陀

 

和田稠先生は仰ったそうだ。

 

そのむなしさを信頼しなさい。

 

僕の言葉でいえば、

 

むなしさは自分が起こすものではなく、自分に生起してきたものであった。

 

むなしさは本願へ導いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

返本還源


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https://twitter.com/oujouwogosuru/status/1489889341157511169?t=YjA-aj6Kq6C7zTwg5enVPA&s=19

 

ツイートしたことをもう少し掘り下げます。

 

年末以降、オミクロンの影響で有縁のお寺にもお参りできておりません。

 

法縁はZOOMが大半で、月に二度、読書会に参加させて頂いております。

 

その2回の読書会でさえも、参加を控えようかなと思う有様です。

 

気持ちが乗らないとき、落ち込むときもありますので。

 

日中は仕事が割と忙しく、手と頭を動かしているので、お念佛はほぼ申しませんし、仏法のことは全く考えません。

 

要は、仏法に縁を頂く前の状態に還りつつあると思うのです。

 

ある意味、その状態が本当にそのままということであり、聴聞しようがしまいが変わらないのが凡夫ということだろう、と思うのです。

 

親鸞という方の唯信鈔文意という書物の中の言葉に、

 

いしかわらつぶての如くなるわれら、というものがあります。

 

この言葉が胸に響きます。われらとは、われもまたということ、つまり他人事ではない。

 

自分事としてわれらという言葉を使っておられる、と思うのです。

 

距離が遠くない、極めて身近に感じる。

 

大地に足を下ろしている。

 

きっと涙されたこともあったろう。

 

月を見上げられたこともあったろう。

 

この南無阿弥陀佛を称えつつ、聞いておられたであろう。

 

凡夫地という本来在るべき処へ還る、

 

元に戻る、何度でも戻る。

 

念佛を申す、南無阿弥陀佛とは、帰れという声である。

 

格好をつけず、自分の言葉で大悲を表現し、生活の中で有縁のみなさんとともに身を置く。

 

このことは僕にとって、とても大切なことです。

 

南無阿弥陀