むなしさとともに

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座標を獲るということ(存在)

何となく長文を書く気分になれず、

 

このところ、一ヶ月に一度の投稿がやっとですが、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

 

むなしい、ということの本質は何かということを考えると、次のように感じます。

 

(存在)人生における手応えのなさ、自分が存在することの意味が分からない。

 

(所在)何処にも自分の居場所が見つからない。

 

 

今回は(存在)について考えます。

 

まず、今の自分が感じる結論は、

 

「手応えはなくて構わないし、自分が存在することに特に意味はない。縁起で存在しているだけである、しかし、本当のところ全く縁起が分からない」です。

 

手応えがない、ということは、際限のなさともいえます。

 

努力してこなかった訳ではないし、それなりに苦労してきましたが、結局、果てしないのです。

 

上には上が居る。

 

現実に、天賦の才というものもある。

 

努力ではどうにもならないことがある。

 

最終的に必ず死なねばならないし、生まれてしまった以上、老病死は不可避である。

 

存在するということは残酷で厳しい。

 

 

ざっと、こんな感じでしょうか。

 

 

これらに対し、疑問を持ち、道を求めることが始まるような気がします。

 

 

今ここに居る以前、仏教では久遠の過去、あなたは流転し続けてきたのです、と教えられます。

 

なぜ自分はこの世界に居るのか。

 

この問いの答えは、僕はただの一度も成仏したことがなかったからです。

 

つまり、仏に成るべき身に定まるということが今に至るまでなかったのです。

 

だが、幸いにもようやく弥陀の本願という法に巡り合うことができ、今ここでこの身において念佛を聞くことを獲た。

 

この念佛において、念佛にまで成って下さった大悲本願のお心が聞こえて下さった。

 

自分の存在全体、或いは、存在の底に届いて下さった、これが「聞」ということの、僕における実存的表現です。

 

意味は存在することの後に有るものです。

 

必ず存在の後であり、前ではないし、この順序が入れ替わることはない、と思います。

 

このことは、自分は凡夫として今ここに居るという気づきによって恵まれる智慧であります。

 

煩悩具足の凡夫とはほかの誰でもない、自分のことであった。このことが(自らの座標を獲る)ということです。

 

大事なことは、僕らの座標は無いではなく、あるのに見失っているということです。

 

このことは自分で気づくことはできません。

 

凡夫が凡夫と自覚することはできません。

 

なぜなら智慧なき無明の人間を凡夫というからです。

 

智慧の光明に照らされて、凡夫であることを奪還する、これを深信自身といいます。

 

深信自身が、いのちある限り深まっていく道程を往生、殊に真宗では、念佛によって深まっていくために、念佛往生と申します。

 

念佛往生は、身が終われば必ず成仏せしめるはたらきをもちます。

 

存在を奪い返すことにより、自我が客体化される。つまり、我執が智慧により相対化されます。

 

これにより、縁起ということを教わっていくことが始まります。縁起とは、関係であり、因縁和合によって、自分は今ここに居るし、考え、行動するのだ、と。

 

つまり、関係を離れては自分も存在することができない、ということです。

 

おかげさま、ということです。

 

人間である以上、意味や価値から解放されることはない、しかし、意味や価値は虚妄に属するものであることは智慧の念佛から教わっているのです。

 

自分は智慧なき者ゆえ、都合の悪い縁起を憎むのです。俺の邪魔をするな、と。つい、夕方思ったばかりです。

 

故に苦悩は免れませんが、やむを得ない、思うものは思うのですから。

 

 

 

次は、所在について考察します。

 

南無阿弥陀