お経を読んでいます。
浄土三部経ではありません。雑行だと言われるかもしれませんが、
別に構いません。そういうことを気にする必要はもうありません。そのままです。
そのお経に嫌と云うほど出てくるのが『衆生のために』という言葉。
自分はある意味、今生では諦めていることがあります。
決して他人とわかりあうことはできない、と。
自分の思いから一歩も出ることができないから、分かり合ったり、
受け止めたりすることが、どうしてもできない、と。
自分さえ良かったら、それでいい、と。
でも一方でこうも思います。
今のこの心は間違っているな。独りよがりではいけないよな。
誰かの役に立ちたい。本当にお互いを尊重し、理解しあいたい。
簡単にいえば、みんなと仲良くしたい、ということのように思います。
今まで、自分は煩悩を無視してきました。さしおいて、そのまま念佛を申す、と。
どうも違います。
煩悩を無視するということは、己を無視することのように思います。
だから、煩悩を直視して、ただ念佛を申す。
煩悩があるまま、起こるまま、ただ念佛を申す。
これが本当に煩悩を超えるということのように思います。
無視ではなく、受け止める。その心を変えることなく、
さしおくことなく、そのままの心で、ただ念佛を申す。
佛名を聞く。
煩悩も衆生かもしれません。
目の前の人は、過去世で兄弟だったかもしれません。
目の前の魚は、未来世で親かもしれません。
懐かしいなと思うのです。とてもとても。
うーん、一体どんな縁があったのだろうなと。電車で隣に座る人、
たとえ一言も声を掛けない人であっても、まして毎日顔を合わす人は況やです。
度衆生心とは、本当にこの人を受け止めてあげられない、と云う心でも
あるし、何とかして力になりたい、と思う心でもあると思います。
非力な自分ではありますが、有縁の方とともに、念佛往生の心を
どこまでも尋ねていきたいと思うのです。
本願とともに。南無阿弥陀佛