念佛申す者、すなわち、我が名を称えるものを
必ず我が浄土へ生まれさせる、間違わさん、という誓いである。
我が名を称えるばかりで、必ず助ける。
この言葉は我らの世界における、ぎりぎりの如来の表現である。
形から心を頂く。かたちなき法性が、自己を否定して、
あえて姿と形をとって、願いを聞かせる。
それがひとこえの念佛である。このひとこえのほかに、
仏はましまさず。このひとこえに大悲が顕現している。
自分が助かるとか助からないとか、そんなものしらない。
如来が助けると仰るのであれば、それで十分。自分の確信など何の価値も
ない。確信と思っているだけで、無根拠であり、そう思える縁起が
成り立っているだけで、因縁はやがてほどける。
法性は常住である。如来は常住である。われは無常である。
如実知見、逃げない、仏法とは正面から受け止められることである。
南無阿弥陀佛