土徳と善知識に育てられたお同行の言葉は、
たとえ理性的ではなくても、しみこむように感じる。
仏法を聞いたら、ちっとはましな人間になれるかと思っているが、
どうでしょうか、と尋ねたら、先生は「あんたは諦めなはれ。
ただ念佛申しなさい」と仰ってくださった。
長い月日が流れたが、今になって、先生に言われた言葉が
とても有難い、と仰っていた。
ちっともましになれない。何にも変わらないし、変われない。
どうにかなると思っていたが、どうにもならない。そこに一つの悲嘆があり、
断絶がある。そこに聞こえる念佛の声。
その声が聞こえたならば、もはや法蔵比丘に文句が言えぬようになる。
何も言えない。疑おうにも疑えぬ。信じようという心さえいらぬ。
ただあぁ、この南無阿弥陀佛に往生させて頂くばかりである、と
何度でもそこに引き寄せられ、念佛を聞かされる。
あぁ、この本願の尊さよ。あぁ、諸佛証誠のありがたさ。
弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞いちにんがためなりけり。
信じるとか信じられぬとか、助かるとか助からぬとか、わが身に付属する
一切は無用。応に如来如実の言を信ずべし、と仰った、親鸞聖人の
仰せ、有縁の善知識、諸佛のお言葉にただうちまかせるのみ。
南無阿弥陀佛