むなしさとともに

一切の悲しみが尽き果てるまで、共に歩む twitter(@oujouwogosuru)

現実における智慧のはたらき

四つの頃から、ずっとむなしさを

 

抱えていました。存在の意味が分からない、

 

ということです。今実感するところから

 

振り返ると。満たされていない。

 

不安定である。

 

今も存在の在り方としては、同じです。

 

しかし、自分は身体ではないし、

 

目に見えるものを見ているだけで、

 

僕は目ではない。

 

自分の場合は、阿弥陀仏の本願念佛こそが

 

誠でありました。一切を賭けてぶつかれば

 

必ず道が拓けるでしょう。

 

若不生者のちかいゆえ 

信楽まことにときいたり

一念慶喜するひとは

往生必ずさだまりぬ、

 

親鸞聖人は仰る。若不生者のちかいとは、

 

大悲を顕す。

 

他の宗教、哲学を否定する必要はないと

 

考えます。なぜなら、

 

恐らく彼らが触れたものは、

 

阿弥陀仏の本願から出ているものだろうから

 

です。

 

存在の決着、即ち、自分は助かることのない

 

孤独なる存在である、という、今、ここに、

 

存在する身の主観における自覚、認識、

 

認知が現生における信心の智慧のはたらき。

 

この智慧のはたらきが、一切平等を開き、

 

共に助けられる世界を、

 

求めさせて下さります。

 

問題を抱えていたのは、

 

自分だけではなかった。皆、本質的には、

 

自分と同じ存在であると。

 

もう、いいのです。自分は。最低限、

 

いのちを保てるだけの生活で。悲しきかな、

 

身を保つために他者、衆生から奪い、

 

貪らねばなりません。そのことの痛みも、

 

僅かにあります。

 

一方で、この悲しくて、寂しくて、

 

同伴者のいない世界と存在が終わることを

 

切望するのであります。もう、生まれたり、

 

死ぬことがない、終わった、静かな世界。