歎異抄にある。
そくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。
夜、目が覚めて暫く眠れなかった。
色々なことが去来した。
それを通底して流れているものが、自分がいろいろな事にがんじがらめである、ということだ。
繋縛。自分の有様を一言で押さえるならばこの言葉になるのだろう。
即ち繋縛の凡夫である。
どうすればいいのだろうか、このことばかりを思うが、起点は間違いなく、生まれてしまったこと、生苦であり、生苦の元は無明である。
親鸞聖人はおっしゃる。
だからこそ如来さまが立ち上がって下さったのだ、共に念佛せよ、と。
本願のかたじけなさよ。
しみじみこのことを憶念する。立ち返る。
釈尊は仰る。汝、この語をたもて、無量寿佛の御名をたもて、と。
阿弥陀佛は仰る。我が名を称えよ、と。
『釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」『高僧和讃』(善導讃)
この和讃のとおり、二尊の仰せに帰すよりほかにそくばくの業をもつ自分にはやりようが何一つ残っていないのであります。
即ち念佛の一行に帰すのであり、この一行により一期を貫徹するのみです。
南無阿弥陀佛