むなしさとともに

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この頃のこと

ブログの更新頻度が落ちています。

 

仕事がなかなか忙しく、人足が減っているけれども、新しいことにも業務領域を広げつつあります。

 

3つの業務に加え、4つめの内容です。業務というまではいかないけれど、企画提案の要素があります。提案したものを現実に落とし込んで流れを変えていきます。

 

振り返ると、今まで仕事として、或いは、上司として、学んできたこと、新しく身につけてきたこと、訓練してきたことが土台となりつつある、と感じます。

 

土台、ということをもう少し考えると、真に理解したということと、理解したことを何度も再現できること、或いは他者に噛み砕いて伝えるということは一つであり、そこまでいかなければならない、土台にならないと感じています。

 

頭で考えなくても、身が動く、動いている、反射に近いのかもしれないが、達人や玄人という人達は恐らくそこまで到っておられるのだろう、と。

 

つまり、それほどまでに繰り返されたのであろう、と。

 

他者は一人ひとり認知に癖があり、声が届きやすい人、文字が届きやすい人、図表が届きやすい人、色々な人がいます。

 

これらの人の特性に応じて、こちらの意図が伝わるように工夫してやりとりをします。

 

言葉の使い方、報告の仕方、事前に声をかけたり、礼儀を重んじたり、とにかくスピードを意識して対応したり、まぁ色々です。

 

これらの素地が傾聴であり、コーチングであり、交流分析で教わったことです。これらは継続して学びたいので、今年も教えて頂く機会を頂こうと思っています。

 

そして、更にこれらの技術を支えるのが本願念佛であります。

 

最も深いところの層に浄土真宗があります。無限大悲が常に共にまします。

 

本願念佛の教えを一応は解ったというところを初歓喜地に至ると云われます。

 

表層の浄土真宗では初歓喜地がずっと続いていくように思うかもしれないが、人生もまた続いていくわけで。

 

苦悩は終わらないのです。煩悩もそのままです。

 

しかし、初歓喜地を起点に始まるものがあると思います。

 

念佛往生、往生の問題であります。

 

往生には始まりがあり、必ず遂げられる性質がある。

 

師から頂いた大切な言葉です。

 

続いていく生活の問題は往生の問題です。

 

今、自分が向き合っているのは往生の問題であり、これがそのまま信心批判の問題であると感じています。

 

つまり、解ったというところに留まらせてくれないのです。それが有難いことです。

 

故に教義教学の問題よりは、現実に向き合うことに力点が置かれているのであります。

 

南無阿弥陀