むなしさとともに

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挫折を通して道が定まる 追記あり

人間にとって最も大切なことは何か。

僕は、その人に道が定まっているかどうか、

だと思っている。

道というと、抽象的に思われるかもしれないが、

道とは、方向であり、原点である。

至るべきところ、現在地、自身の現実、これらが

見えているかどうか。

三者を把握するとは、三用のことではない、

実は一つのことである。智慧から知らされること

だからである。人間の分別知で把握することは

絶対にできない。

道があれば自分を生き切ることができると

思う。しかし、道なき場合は必ず挫折する。

何故なら人間は有限なる存在であり、

越えられない一線が実在するからである。

それは死ぬことであり、老いることであり、

ひとりひとりの身に初めから仕込んである。

生まれてしまった者は須く死んでしまう。

このことは揺るがない事実である。

これは必ず起動する。代わりは効かない。

自分自身が被るしかない。

これを独生独死独去独来と佛は仰る。


道は教を聞く、あるいは教を生きている人から、

伝わるものである。


愛しいものが、実は、自分を救うものではなかった

ことが暴露されるのは、耐え難いことだ。

しかし、真実のはたらきは耐え難い事実を

徹底的に知らしめ、そのひとを挫折させる。

いや、本当は最初から挫折していたのだ。

そのことを誤魔化そうとして生きてきたが、

誤魔化しきれなくなったのだ。


挫折を通し、念佛を申させて、

道が定まり、その人は復活する。

このことを真宗では、信心決定という。

信心決定の時をもって往生が開始する。

往生は必ず滅度に至る。至るから道という。


全ての希望が尽き果てた時、聞こえる声がある。

その声を念佛というのだと体解する。


願うべきは真実報土、残念ながらここは娑婆、

自分は凡夫にすぎないということは、如来

光明、智慧のはたらきから知らされるものである。


真宗は自分はこの世で決して佛になることはない、

こういう残酷さと、

だからこそワガナヲトナエヨという大悲が

隣り合わせなのである。だから、

現生不退で十分なのである。道は必ず浄土に至る。

何故なら浄土から届いている道だから。

南無阿弥陀


2020.02.23追記

正定聚不退転。このことは、浄土真宗

核心であると言ってよいと思う。


なぜ摂取不捨の利益に遇わねばならないか。

歓喜地に至ることで、初めて佛に成ることが

確定する故に、菩薩は大きに歓喜する。

故に歓喜地と言われる。


即ち、歓喜地に至らしめられなければ、

どこまでも流転し続けていかねばならない。

果てしなく、際もなし。だから、このことを

後生の一大事と先人は仰った。




真宗は死んだ後の話ではなくて、生きている、

今、ここで、存在しているうちから、浄土の

はたらきを身に蒙る、蒙り続け、この身が滅ぶ時、

必ず浄土に生まれ遂げさせられるのである。

このことを必至滅度という。


歓喜地に至らなければ、退転する。

即ち、確定、決定がないのである。


阿弥陀佛の本願とは、現生不退の身に摂取し、

必ず浄土に至らしめて下さる法則なのである。


念佛とは、我は汝を決定して往生せしめる。

安心せよ、という福音である。

こういって差し障りないと思うのであります。


故に、摂取不捨の利益に遇わねば、人間に

生まれた所詮が満たされないのであります。