むなしさとともに

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僕らは、現実の中に居り、生きている。

 

生きているというよりも、生かされているというか、それぞれの身という、居り場を与えられているのかもしれない。

 

いのち、は自分の所有物ではないし、この身も所有物ではない。

 

いのちの中に、自分を形成するはたらきがあり、身を居り場として、自分は生活している。

 

宗教とは、心の問題の解決という先入観があるかもしれないが、僕は、実存の問題だと思う。

 

実存とは、限りある身を抱え、折にふれ苦悩を感じざるを得ない存在だろうと思う。

 

それは、誰かというと、自分のことだ、と考えるわけです。

 

つまり、いくら高尚なことを考えたり、感じたところで(現し身)をもっているのであります。

 

(現し身)をもつ以上、現実の中で、他者とやりとりをせざるを得ない、かかわりを持たざるを得ない。それは家庭であり、会社であり、場であると思うのです。

 

 

その現場で問われると思うのです。何を聞き、何を大事にしているのだ?と。

 

現実において、自分の心を現すのは、行、おこない、動き、はたらきしかないと思うのです。

 

しかも、継続一貫した行です。

 

単発なら行ずることは易い。しかし継続していくには背景、動機が必要です。そして、忍耐も。

 

行は動きではありますか、とても静かです。静かとは、目立たない、自然に溶け込むという意味です。

 

つまり、自己主張する必要のない、意識にものぼらない、身についた行こそが本物だろうと思います。

 

その人にまで成った行。行が血肉化された人。

 

体解という学びがあります。三帰依文でも大道を体解して、という言葉が出てきます。

 

これなのです。目指すところは。往生とはこのことを指していると思うのです。

 

『お互いに傷つけあわなくて、仲良く生きていきたい、とみんな思っている』

 

中川先生というご往生を遂げられた先生から、繰り返し巻き返しお話を賜った言葉です。

 

僕らには僕らの意識よりも、もっと深い願いをもっている。

 

そのことを端的に表現しているのが、中川先生の先の言葉ではないかと考えます。

 

心境にとどまらず、信を現実に表現していく、展開していく、本願を証ししていく。

 

こういうことが、行ということの持つ課題であろうと思うことであります。

 

十九願で繰り返した有縁の諸善万行が現実において、もう一度、展開されます。

 

相は同じですが、中身が異なります。自力の心でありますが、他力に摂取された自力であります。

 

 

南無阿弥陀