むなしさとともに

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如来の棄てられたものを棄てる

選択本願の念佛。

 

浄土真宗の行は、称名念佛の唯一行。

 

助行を除く、他の一切を雑行とよび、棄てている。

 

棄てるとは、憑りにしないこと。拠り所にしないこと。

 

称名念佛は、如来の選びとられた行である。真実の方便である。

 

五濁悪時群生海 応信如来如実言(正信念佛偈)(親鸞聖人)

 

如来如実の言葉とは、真実、まことの言葉を指す。

 

ゆえに、顛倒しない。決定している。裏切らない。

 

すなわち如来の選ばれた行を行じ、如来の棄てられた行を棄てる。

 

如実の言を信ずべし。如来の言葉を仏説として頂き、それに随順する。

 

これが念佛者。

 

念佛者は、無碍の一道なり(歎異抄第七章)

 

無碍とは、苦しみ、悩みが、苦しみ・悩みのまま、如来の智慧により、

 

転じられることを指す。

 

わたしの智恵は、相対分別。善悪、美醜、貧富、賢愚。つねに分け隔てと

 

比較によって成り立っている。

 

そういう相対分別を超えたものを『如来』と云う。

 

そして、『如来』と『わたし』が出遇うことを、『信心』と云う。

 

また、その如来とは、『今生』で、今、ここで、出遇うことができる。

 

そういう命をわたしたちは、ひとりひとりが生きている。

 

だから、尊い。

 

そして、凡夫(自らではどうにもならない存在)という自覚において、

 

にんげんは、みな、凡夫であり、平等が成立する。

 

平等の根拠が違う。

 

如来の眼からみそなわしたわれわれ一人ひとりは、みな、もれなく、すべて、

 

一切の人が『凡夫』である。

 

だから、どんな嫌な人も、ご縁があって出会ったのだから、

 

みな懐かしい。過去世にどんな縁があったのかはしらないけれど、

 

袖触れ合うも多生の縁。しかし、自分が凡夫であると決して認めたくない自分がある。

 

だから、念佛が聞こえない。

 

本願とともに。なむあみだぶつ