むなしさとともに

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念佛往生の誓願

念佛申す者、すなわち、我が名を称えるものを

 

必ず我が浄土へ生まれさせる、間違わさん、という誓いである。

 

我が名を称えるばかりで、必ず助ける。

 

この言葉は我らの世界における、ぎりぎりの如来の表現である。

 

形から心を頂く。かたちなき法性が、自己を否定して、

 

あえて姿と形をとって、願いを聞かせる。

 

それがひとこえの念佛である。このひとこえのほかに、

 

仏はましまさず。このひとこえに大悲が顕現している。

 

自分が助かるとか助からないとか、そんなものしらない。

 

如来が助けると仰るのであれば、それで十分。自分の確信など何の価値も

 

ない。確信と思っているだけで、無根拠であり、そう思える縁起が

 

成り立っているだけで、因縁はやがてほどける。

 

法性は常住である。如来は常住である。われは無常である。

 

如実知見、逃げない、仏法とは正面から受け止められることである。

 

南無阿弥陀

光明のはたらき

白を黒に、黒を白にするものが光明のはたらきではない。

 

白を白と、黒を黒と、そのもの自体の存在全体を照らし出だすはたらきを

 

光明というのだ、と体解する。

 

悪性を悪性と、自己中心を自己中心と、凡夫を凡夫と知らしめる。

 

如来のはたらき、智慧とよぶのだと味わう。

 

知らされた悪性は、すでに、光明の中に摂め取られている。

 

明遍照十方世界 念佛衆生摂取不捨(観無量寿経

 

凡夫であることをずっと忘れていた。

 

そこに帰れば、あぁ、すでに光明の真っ只中だ。

 

南無阿弥陀

外道

光は照らすものであり、そのはたらきは、照らされたものを

 

見せつけるものである。

 

知らなかった。自分が全くの外道であることを。

 

どんなに聞いても聞いても佛道を歩むことができない。

そもそも迷いの中を出たいという気持ちがない。皆無である。

 

望んでいることは、わが身の安穏。それ以外にない。

 

外道を外道とも思わず、聞こえたとか分かったとか言っている。

 

外道であるが故に、分からなくても聞かなければならない。

 

外道であるが故に、我が名を称えるばかりで助けるという仰せが

 

かかっている。無相さんのお言葉を思い出す。

 

南無阿弥陀