むなしさとともに

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虎視眈々

新しい期が始まりました。

 

個人的には大晦日より、3月末が

 

年末のような心持ちです。

 

虎視眈々。

 

これがこの一年のスタイルになります。

 

チャンスが来るまでしっかり牙を研ぐ。

 

研ぎ続けていく。獲物は逃さない。

 

必ず仕留める。実生活の方針です。

 

一方で、信心については、専ら

 

念佛を聞く。

 

この一行をたもつことは不変であります。

 

血みどろで、嘘と偽りと欺瞞と両舌、

 

悪口、媚び諂いの生活を言い訳にして、

 

現実から目を逸らさない。

 

しっかり見つめる。凡夫から逃げない。

 

ちゃんと凡夫をやる。

 

凡夫であることは、とても悲しいし、

 

正直死んでしまいたくなる、そんな気持ちも

 

わかるし、実際に鬱にもなった。

 

でも、今、わが名を称えよの大悲が

 

まします。凡夫の身に本願が懸かっている。

 

だから凡夫に帰るのが大事であり、

 

この一点から離れないことが肝要で

 

ありましょう。

 

鬱は鬱のまま、助からない身のまま、

 

大悲に託す。念佛に帰る。虎視眈々と

 

実世界の知識を体得していく。

 

もはや助かろうが助からまいが知らない。

 

ただ念佛を聞く。それだけで幸福である。

 

もうよいのである。

 

木村無相さんは、仰せがかかっている、

 

こんな自分に佛様は目を止めて下さった、

 

これだけで十分だとおっしゃったそうだ。

 

 

南無阿弥陀

 

 

追記あり 佛説寂静禅経 

最近は便利ですね。

youtubeで初めてこのお経を聞かせて頂きました。


https://m.youtube.com/watch?v=Ruzln5iWVec

 

このお経は直接的には浄土真宗


関係ないように聞こえるかもしれない。


しかし、全く浄土真宗の教えに


等しい響きがある。

 

 


浄土真宗の念佛の信心の道程、信心決定以後、 どうすればよいのか、


何をしていくのか、 そういうことを繰り返し巻き返し教えて下さる、


そういうお経に出会うことができました。

 

 


入り口に過ぎない。こう明確に仰って下さる。


苦難の意味、佛からの叱咤激励。権化方便。


佛からのお言葉は、常に暗示と云う形で示される。お経も同じ。


この御心を頂く、このことが肝要であり、実践において、 獲得せねばならぬ。


自身が徹底的に凡夫であることを


逆説的に知らしめられる。これを獲得といい、

 

佛からすれば回向という。


寂静禅の門前に必須の領解あり。


佛道は利他の道なり。

 

こういうお言葉が佛説である。身の毛いよ

 

だつ響きである。


南無阿弥陀


2020.02.11追記


聴聞はもちろん大切であり、行は


念佛一行でありますが、


これに固執し、自分を特別な者のように


錯覚したがる性があります。


これは性であり、悪癖というか、


身に染み付いてしまっているもの。


そういうことを繰り返し教えてくれるのが、


日常生活、人とのやりとりだと思います。


仏法に限らず、宗教は酔いやすいもの。


心境に酔うことなく、自分の変わらざる


生活を忘れずに、地に足をつけて、


念佛聞法、生活の中に佛の教えを


聞いていきたいです。このお経が


言わんとされていることは、信心獲得は


出口ではない、ということで


ありましょう。入口なのであります。


共に本願に助けられる、助からぬわれら、


なのであります。念佛の信心とは、


差別ではなく、絶え間なく平等を


開いて下さる、


おはたらきでありましょう。





とどまる

何というか、宗教的であろうとする、と

 

いうよりは、ただの一個の個体というか、

 

自身というか、そういう処、自分の居り場、

 

足元に帰る、足元を丁寧に掘り下げていく

 

作業をしたい、そんな気がする。

 

信者ではなく、ただのひと。

 

ただのどこにでもいる、だれからも

 

見向きされないすれ違うひと。

 

それが自分であろう、と。

 

全然読めてない本がある。全然知らない

 

世界があり、ひとがいる。不思議なこと、

 

悲しくても何もできないこと、立ち尽くす

 

ほかないこと。そういうことを、たとえ、

 

如実知見できなくても、観る努力をしたい。

 

そんなふうに思う。たとえこの眼が屈折

 

した認識しかできなくても、それを言い訳に

 

して傍観することには幾ばくの違和感が

 

ある。ほんの少しだけ。立派なことはできない。

 

ひっそり在る名無し草のように。ひっそりと

 

一隅を照らす、そんなふうになりたい。

 

この草は煩悩の大地に根を下ろす。

 

南無阿弥陀