むなしさとともに

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大悲を行ずるとは

『大悲経』に云わく、「いかんが名づけて

 

「大悲」とする。もし専ら念佛相続して

 

断えざれば、その命終に随いて定んで

 

安楽に生ぜん。

 

もしよく展転してあい勧めて念佛を

 

行ぜしめる者は、これらをことごとく、

 

大悲を行ずる人と名づく」と。

 

顕浄土真実教行証文類 信巻)

(東真宗聖典p247 118)

 

専ら今ここで口に称え、耳に聞こえる、

 

南無阿弥陀佛を頂きなさい。一声一声が

 

如来のおでまし、一声一声が浄土真宗

 

このように念佛を自ら実践し、

 

教えて下さる方を常行大悲の方と仰ると

 

親鸞聖人は引用なさっている。

 

特別なこと、立派なこと、社会の役に

 

立つこと、どれもみな落第です。

 

今、ここでわが名を称えよと仰せ下さるので

 

あれば、称え、聞かせて頂くよりほかに

 

自分には何一つ道がありません。

 

あるのは貪瞋ばかりで、とどまることも

 

ありません。出続け、流れ続けています。

 

故に、

 

大悲の方のお勧めに随い、念佛を申します。

 

 

追記あり こんなところへ来てくれて有難う

アクセス分析とやらを見ると、

 

グーグルからお越しくださる方が70%、

 

フェイスブックからも2%見て下さるようで、

 

有難うございます。

 

こんな変なブログへ(笑)

 

謎ですね(笑)

 

フェイスブックも何となくおっかなくて

 

してないのですが、どういう経緯なので

 

しょうか。わからんです。何かあれば、

 

ぜひ教えて下さい!

 

 

ただ、見て下さる方、反応して下さる方が

 

居てくださるので、継続している面が

 

あるのです。

 

 

交流分析(TA)というものの中に、

 

ストロークという概念があります。

 

行動認知の一単位という定義だったと思うの

 

ですが、要は、あなたが居ることを私は

 

認識してますよーと、何らかの行動で

 

示してくれること、だと思っています。

 

 

僕はメダカを飼っていますが、給餌係への

 

反応とはいえ、彼らは寄ってきます。

 

この反応だけで、僕は励まされます。

 

こういうことが、原始的に大切なことの

 

ように思います。なぜなら、人間も

 

動物ですから。

 

自分を他者が認知、認識してくれる。

 

これは当たり前のことではないようです。

 

相互のはたらきの上で成立するからです。

 

 

 

【あたたかい心は、

 

その対象者にはたらくよりも

 

先に、あたたかい心を起こした本人に

 

はたらく】

 

去年か一昨年に、先生から聞いた言葉です。

 

こういう言葉はどこから来るのだろうと

 

思います。浄土から、でしょうか。時々

 

思い出す大事な言葉なのです。

 

 

少しくだけた話かもしれませんが、

 

僕何ぞのブログに反応して下さる方、

 

或いは、足を運んで下さる方、

 

いつも有難うございます。

 

僕の方こそ励ましてもらっています。

 

こういう時勢であり、恐らく、以前とは

 

違う時代になるのでしょうが、共に

 

道を求めていきたいと思います。

 

では引き続き宜しくお願い致します。

 

2020.05.10追記

 

新型コロナウイルス感染症に伴い、

 

従来の生活様式には、恐らく戻らないのでは

 

ないかと思っています。

 

人との距離感もとらざるをえない。

 

そうすると思うのです。

 

近い距離でやりとりしていたのだなぁと。

 

この疫病から、何を学ぶか、学び、

 

次代に活かしていくか、を問われているので

 

あって、他者を排斥、攻撃、否定したり、

 

間違った見識をもって、過剰に畏怖する等は

 

控えるべきだと思います。

 

ただし、一連の流れで、

 

政府は危機管理能力が乏しい、

 

ということを感じました。かといって、

 

他の政党に今以上のことができるかどうかも

 

分からないし、微妙です。

 

彼らを頼るのではなくて、自分で、

 

海外の動向や情勢、情報を確認し、

 

国内と比較しながら、できることをやる、

 

他者を批判するに留まらず、自分は手を

 

動かし、汗をかき、感謝の言葉を直接

 

表現したいと思います。

 

批評家になりたくないと思います。

 

 

 

 

 

 

何を求めてきたのだろう

今更ながら分からなくなってきました。

 

自分は何を求めてきたのだろう?

 

僕は四つの頃から記憶があるのですが、

 

空虚感をずっと引きずってきました。

 

今もそうです。

 

厳密にいうと、

 

以前:生きていること、

存在することそのものの意味のわからなさ

 

今:存在していることの寂しさ、自分の愚かさ、生存していることの悲しさ

 

こうしてみると、質が変わっているような

 

気がします。よくわかりません。

 

意味のわからなさというよりは、

 

わかりあえないこと、奪わずにはおれぬこと

 

の悲しみでしょうか。うまくいえませんが。

 

コロナウイルスの影響で有縁のお寺に

 

赴くことができません。先生から直にお話を

 

聞き、姿を見、声をお聞きすることは

 

当たり前のことではなかったのだなぁと

 

思います。もう二ヶ月聴聞しておりません。

 

こうすると、自分は何をしてきたのだろう。

 

何をしていくのだろうと思います。

 

信仰とはどういうことだろう。

 

ただ、今、明確にいえることは、

 

大悲とは愛である、ということだと

 

思います。無条件の無上の愛を大悲と

 

いって差し支えないと思います。

 

根本的に、一切の有情は如来から大悲されて

 

いる。大悲とは名詞ではなく、動詞であり、

 

永遠に現在進行形であるもので、

 

ありましょう。

 

念佛とは阿弥陀如来からの100%純粋な

 

直説法である。

 

先生のお言葉を、何度も

 

反芻しなければなりませんね。

 

丁寧に読めていなかった本を、少しずつ

 

読みたいと思います。