むなしさとともに

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歎異抄聴記①現生不退

p16-17

現生不退とはなんぞやというと(略)、現生不退とは自覚自証である。(略)「歎異抄」はおそらく現生不退の内容をもっとも明瞭に示されてある。これ「歎異抄」のすぐれたる特長である。

 

正定聚不退の位。

 

 

真宗において明らかにしなければならないことだと思う。

 

不退転の位の最初を歓喜地という。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%9C%B0

 

 

 

このとき初めて定まる。必ず佛に成ることが。

 

十信、十住、十行、十回向、

 

十地、等覚、妙覚という形で菩薩の階梯は表されている。

 

十地と十地以前とでは、判然と違いがある。

 

それは何か?

 

退転の有無であります。

 

退転とは、報われない、成就しないということではなかろうか。

 

積んだ努力が仏道に実を結ばない。

 

そもそも求めてきたものが仏道なのかもわからない。それにさえ気づかない。

 

そうすると、歩みが止まってしまう、白ける。意味もなく、きりもなく、確証もない。

 

大悲の願よりいでたる浄土真実の行を自分が用いてしまう。心境をこしらえて清らかな心で念佛すればいいのか、と。どうしたら良いのか。

 

どうしたらいいのか、ということは普通の考え方で、ここには自己信頼が残存している。

 

即ち、自分の努力でなんとかなるはずだという希望。

 

どうにもならないものよ、という本願は、自己信頼が残る間は決して聞こえない。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

歎異抄聴記にたずねたいと思います

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曽我量深先生のこの本が気になっていたので、ようやく買いました。

 

暫くたずねてみたいと思います。

 

現生不退と機法二種深信。

 

このことに力点が置かれているような印象を受けています。

 

週に一度くらい、ぼつぼつ書いてみます。

 

南無阿弥陀

少しずつ再開していきます

春の嵐というのでしょうか。

なかなか雨風が強く、外出にも一苦労でした。

 

一区切りがついたので、ぼつぼつブログを再開しようと思います。

 

この2ヶ月で、体調を崩したり、ほぼ聞法には行かずに過ごしていました。まぁTwitterは結構やってしまっていましたが。

 

自分は全くの在家であり、実家は真宗でもありません。曹洞宗らしい、という位宗教とは遠い所におりました。

 

地元は真宗の寺院はかなり少ないらしいのです。この何年かで知ったのですが。小学校の時に一番外でよく遊んだのはお墓でドロケ(泥棒と警察って知ってるのかな)をしていました。

 

実はそのお墓のある寺が真宗のお寺だったようで、南無阿弥陀仏と彫ってある墓石の前を何度も走り回っていたのであります。

 

こういうことを考えると、如来の骨折りを思います。ここまでにどういうお手回しがあったのだろうと。

 

信心とは信者に成ること、ではありません。

 

むしろ逆です。

 

全く無仏法の者であると知らされるのが信心の智慧と云われるものであり、念佛申す心など微塵もないのです。

 

一方で、現実の残酷さに疑問をいだきつつも、結局どうしたらいいのかもわからず、本当に差別を無くし、平等なる世界を実現したいとも思えないのであります。

 

力がない、というか。脆弱な存在だと自分でも思います。ただ、一偶を照らすというか、自分にできることはさせてもらおうと思い、技術を学び、生活の中で試しているところです。

 

だからこそ、そんな汝故に、わが名を称えよと南無阿弥陀佛と喚びづめに喚んで下さる、これを憶念という。

 

自分が憶念するのではなく、如来に憶念されているじゃないか、と。

 

主体が客体化され本願によって念佛せしめられる、一声の念佛でも十七願のおはたらきであろう、と。

 

こう思うのであります。

 

また本願念佛の大悲に耳を傾けてまいります。

 

 

 

南無阿弥陀