むなしさとともに

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曽我量深先生の言葉

歎異抄聴記⑧後念相続

われわれは常に信の一念に立つべし。われわれは後念に立つということはないものである。われわれは常に信の一念に立てというのが、第九条のご教訓の精神である。いのちのあらんかぎりはむろん、乃至一念である。(歎異抄聴記 曽我量深師p258) 僕自身は歎異…

歎異抄聴記⑦本願の機は誰か

身とは一生涯変わらぬ自分である。自分の心は時々刻々に変わるが、わが身は一生涯貫通して変わらない。ゆえに「自身」という。衆生とはすなわちわが身である。われら衆生である。「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」。すべて宿業に悩まされている苦悩の衆生をすてず…

歎異抄聴記⑥信心の徹照

なぜ信心をもって肝要とすというかとならば、罪悪深重である。ただ信心だけはいっさいの自力の機のはからいをすてて、自力無効としてもっぱら深く如来をたのむ信心、それに対して罪悪深重という。本願を深く信ずる人はやはり深く自分の罪悪を信ずる。罪悪の…

歎異抄聴記⑤所行能信

われわれのとなえる念仏もまた、所行におさまり、われわれがとなえたからからといって、やはり能行ではなく、たとえ、信以後にとなえたからといって、やはり所行である。能行というわけにはいかないのである。これは真宗学としては、もっとも古い真宗学であ…

歎異抄聴記④所行能信

※歎異抄聴記は非常に難解なので、いったん十を目安にやってみようと思います。 行は背景である。歴史的背景である。行は歴史的現実である。歴史的現行であると了解すべきである。されば、信なるものは、行を信ずるのではない。すなわち、行のそとにあって行…

歎異抄聴記③欲生

しかるに、真実信楽が法爾の道理によって内に欲生を開き、外に開くのではなく、内に開く。内に開くのを等流という。(中略)他力信であるかという自覚自証の原理は願にあり、欲生にある。(中略)真宗学の問題は欲生の問題である(歎異抄聴記p41) 願成就の信であ…

歎異抄聴記②機の深信

機の深信は法の深信が根源で、法から機を開くについて、二種深信ができる。ゆえに、二種深信としては、機の深信が主なるものである(p32-33) 今生では信が発起したとしても、佛になることはない。これは、ある意味の断絶を表す。つまり、この身で助かることは…

歎異抄聴記①現生不退

p16-17 現生不退とはなんぞやというと(略)、現生不退とは自覚自証である。(略)「歎異抄」はおそらく現生不退の内容をもっとも明瞭に示されてある。これ「歎異抄」のすぐれたる特長である。 正定聚不退の位。 真宗において明らかにしなければならないことだと…

自覚の信

我々には機の深信が大事である。万死に一生をかけて一歩前進する、これが本願念佛の道というものである。 一応信心決定しても、その信心が自覚の信になることが容易でない。親鸞聖人は法然上人にお遇いなされて一応お解りになったのであろう。 法然上人のお…

往生の中に今在る

往生は生活である。往生は我等の精神生活である。(親鸞の大地 津曲淳三p21)曽我量深先生の言葉を考える。この残りの人生は何の意味があるのか。どうして信心決定の一念で、この身を滅ぼして下さらなかったのか。生存にどういう意義を見い出せばいいのか。…

沈静

ブログの更新頻度は落ちそうです。 具体的現実に対して、どうするのか、 これが直面する課題だからです。 実際に落とし込む、これはどういう意味が あるのだろう。なるほど、そういうことか。 こういう一人の問答を繰り返しています。 往生とは生活である。…