むなしさとともに

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なんとなく

まだ冬ではありませんが、次第に風が冷たくなってきました。

 

諸々落ち着くかと思ったら、11月一杯は予定が多くて、ざわざわしています。

 

ブログを始めてから6年が過ぎたと申しましたが、聴聞を再開してから、も6年半となります。

 

再開の方が半年早いのです。

 

ふと、思うのです。何を聞いてきた、聞かせて頂いてきたのだろう、と。

 

改めて思うと、正直わからないんです。

 

教えて頂いてきたことがまるで抜け落ちているというか、まぁ身につかないわけです。

 

昨日は午後休みが取れたので、仕事が終わってお寺へ直行しました。

 

聴聞を再開してまもなくご縁を頂いたので、5年以上お世話になっているお寺です。

 

そこで学んだこと、教わったことは何だと考えると、お勤めの時の先生がお念佛される後ろ姿であるわけです。

 

そして、具体的実践的現実的に今ここでお念佛を申し聞くということ。

 

それから、時折思い出す先生方から頂いたいくつかの言葉、そこに集うお同行の方々の姿、これくらいです。

 

ただ聞いてマシになる、とか、人生の足しにするというわけではなくて、やはり助からぬ者として、生活せざるを得ない故に、

 

聞かざるを得ないと実感しています。

 

聞くに耐えない事件や事故、それから、老病死を抱えて今既にここに生きていること、これらは非常に痛いことです。

 

人間であることは非常に重く、痛いと感受しています。しかし、だからこそ我が名を称えよ必ず救うという南無阿弥陀佛がまします。

 

二種深信ということは外してはならないと指導を受けています。

 

まとまりがありませんが、今年もあと一月あまり、引き続き考えていきたいと思います。

 

南無阿弥陀

 

無量寿佛の御名を持て

仕事が忙しく、ペースが戻ってなくてごめんなさい。競争社会で足掻いております。

 

直近の聞法会から早2週間とか、早すぎますね。

 

僕は僧侶ではないので、教学はありません。信者でもありません。ただの社会人です。

 

今も、かっぱえびせんを食べつつ、携帯から打っています。

 

無量寿佛の御名を持て、というのは、観無量寿経の流通文で、阿難に付属される釈尊の言葉です(東聖典p122)

 

阿難とは凡夫の代表であり、彼に念佛せよという言葉を後世に伝えてほしい、というのが流通文の御心でありましょう。

 

言伝をするのは、相手に伝えたいことがあるから託すのであります。

 

お経の言葉は仏語であります。仏語は如来の言葉です。ただの言葉ではない。

 

2500年の歴史に耐えてきた言葉がお経の言葉、即ち仏語であります。

 

釈迦弥陀は慈悲の父母

種々に善巧方便し

われらが無上の信心を

発起せしめたまいけり(東聖典p496善導讃)

 

浄土真宗釈尊阿弥陀佛の二尊に助けられて往生せしめられると思っています。もっといえば、諸仏のおすがたにまで成ってあらわれてくださり、念佛一行を専ら勧めて下さる。

 

阿弥陀経でも念佛せよと専ら勧めて下さる。

 

南無阿弥陀佛一つを勧めて下さる方は諸仏に等しいお方だと思う。なぜ勧めてくるのか、それはその人が現実的に南無阿弥陀佛に助けれているから。

 

阿弥陀経を通して称えれば分かる。同じことが何度も繰り返される。

 

一切諸佛所護念経と何度も出てくる(東聖典p130-132)

 

それは諸仏が重ねて証して下さる故に繰り返される。

 

念佛に助けられなさい、とすすめて下さる。自分の存在を賭けて勧めて下さる。

 

一声の念佛が出てくださるのはただ事ではなくて、諸仏の伝統、諸仏の歴史を通して聞こえて下さる南無阿弥陀佛であります。

 

南無阿弥陀

 

まだ大無量寿経は自分には読むことができません。いつの日かちゃんと読みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

二種深信

こんばんは。寒くなりましたね。

 

仕事終わりに書いています。

 

やっと身も心も少し落ち着いてきまして、

 

少しずつ考えてみたいと思います。

 

 

今回の法座で、あらためて教えて頂きました。

 

自分は渇愛の塊である、と。

 

突き上げてくる意欲に動かされている存在が自分である、と。

 

この突き上げてくる意欲を十二縁起では、行という。僕自身は渇きだと改めて知らされた思いです。

 

しかも、それは無明に根ざした意欲である、と。それが具体的な姿をとって展開しているのが、この老病死を具足して生まれ今ここに在るこの身だと。

 

これはぐうの音も出ないのであります。

 

そのとおりであろう、と頷かざるを得ない。

 

智慧の言葉であります。

 

ここまで言い当てられると、普通は暗くなります。凡夫ということは、耐え難い事実でありましょう。

 

しかし、実は非常に明るい、嬉しいのであります。本当にそうだなぁ、と思う。

 

如来とは智慧、光明。浄土は無量光明土ともいわれる。

 

光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず、との親鸞聖人の言葉もある。

 

光のお照らしが在す故に決して助からぬことが知らされる。

 

無有出離之縁の存在が自分であること、

 

だからこそ、必ず助けずばおかないという大悲、南無阿弥陀佛が久遠の昔から今に至るまで、すでに届いていることを知る。

 

浄土真宗は、二種深信、深信とは信知、

 

深信自身と乗彼願力。

 

もう一度お聖教と師のお言葉と現実と具体的実践に訪ね直したいと思います。

 

ブログとツイッターともう一つ、何か始めるかもしれません。始めないかもですが、何か始めたいなとも思うことであります。

 

南無阿弥陀

 

そうそう、このブログも6年を迎えました。のべ47,300アクセスありがとうございます。

 

おおきに(笑)これからもご贔屓に。