むなしさとともに

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一週間が経ちました

みちのかいを終えて、一週間が経ちました。

少し落ち着いてきたので、言葉にしてみようと思いました。

まずは、無事終わって良かった。これに尽きます。佐野先生、現地参加の方、ZOOM参加の方、色々な方の力を借りて、閉会できたことを感謝しています。

今回は、これまで主に開催までの準備をして下さっていた方が本当に多忙になられたため、踏ん張り時でしたが、これは大変だなと実感しました。

先生とのやりとり、企画、案内状の作成、当日の準備物の購入まで、色々あったのですが、何とかなりました。テクニカルサポートは全くでしたが。

かいが始まってからは、あっという間で、あとは感話、聴聞、攻究、感話、聴聞、感話。場はご講師に作ってもらうものではなく、一緒に創るものですということで、現地、オンライン問わず、協力して時を過ごしました。緊張感があったというお言葉も頂いたので、好かったと思います。

実は、まだ頭の中の整理が全くできておりませんが、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしというよきひとの仰せにうちまかせる、

今ここで称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛に助けられるよりほかに道あること無しとお聞かせ頂いた気がします。

今日はもう一人の師の聞法会があります。再び聴聞の場に足を運びます。

ただ聞いていこう、と、今はこう思っています。

南無阿弥陀

浄土真実の行

諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行

 

大行とは、すなわち無碍光如来の御名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳法海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。

(東真宗聖典p156-157 顕浄土真実教行証文類

 

今週は、この記事の投稿だけになると思います。

 

お念佛に関する親鸞聖人の領解であります。

 

浄土へ往生するための行ではない、浄土真実のはたらきなのだ、ということが浄土真実の行という言葉であろう、と思います。

 

そして、この行は大悲の願より、出でたり、と仰っている。大悲の願とは、最初に挙げられている諸仏称名の願、第十七願のことであります。

 

お念佛は浄土真実の行である。

 

このことは、佐野先生から何度も聞かせて頂いております。浄土から届くおはたらきである、ということであり、人間が使役するものではないのであります。

 

如来成仏の果行であり、因行ではない、ということではないだろうかと思うのであります。

 

我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。已上(p186)

 

ここでいわれる多功徳とは、多少という意味ではなく、相対を絶した真の功徳ということを表しておられる、と思うのであります。

 

それが真如一実の功徳宝海であります。

 

阿弥陀仏のことを【音声仏】ともいわれるそうです。

 

本願、如来、大悲、智慧といわれますが、それはなんぞや、と。

 

わたくしにいわく、それ今ここでこの身に現在称聞せしめて下さるところのお念佛、すなわち南無阿弥陀佛のほかになし。

 

具体的、実践的に、身に引き当てなさい、と教導を受けている。

 

観念的に考えてはいけない。

 

今ここに、助からぬ心身を抱えた自分に南無阿弥陀佛と喚びづめに喚んでくださる故に念佛が聞こえてくださるではないか。

 

この南無阿弥陀佛を聞くひとつ。

 

このほかに念佛も信心もない。

 

それでは、11月にまた。

 

南無阿弥陀

 

 

何を聴聞するのか?

みちのかい、という聴聞の場がひらかれるまで、あと二週間となりました。

 

会が終わり、家に着くのは10/31(日)21時過ぎくらいになると思うので、そこまでは気を抜けないと思っています。家に帰って、初めて終わります。

 

今回は地方の聞法会と日程がかなりかぶっているらしく、今まで3 0名以上ご参加頂いておりましたが、少し少なめになるかもしれせん。

 

もしご興味があれば、お気軽にお尋ね下さい。僕自身も総務として、何度か挨拶やお話をさせて頂く見込みです。

 

先生のお名前を直接お出しするのは、恐縮なので控えさせていただきますが、光闡坊御住持の先生です。お東で聴聞されておられる方であれば、ご存じではないかと思います。

 

先生はとても厳しいです。ずっと思索されておられるように思います。しかし、その後ろに優しさがある。にんげんであることの痛みを知っておられる、僕はそう思って六年ほど聴聞させて頂いております。

 

 

さて、真宗聴聞に極まるといわれますが、確かに骨折って聞け、というのはとても大事だと思います。特に、身を通す、ということが要でありましょう。

 

しかし、では、何を骨折って聞くのか?

 

ここが大事であります。阿弥陀佛の本願のいわれを聞く。

 

大悲がどこから出発されておられ、今ここに念佛にまで成って下さっているのかを聞く。

 

骨折ってくださっているのは、法蔵菩薩であり、僕ではないのです。僕は自分自身の始末ができず、自分自身さえ対象化し、モノとしてしか見られないような心を抱えて、うずくまり、泣いているような存在です。

 

だからこそ、お前をわが浄土に往生せしめずばおかない、汝のための浄土ぞ、必ず往生させてくれよ、と佛さまの方が頭を下げておられる。

 

南無阿弥陀佛の一声に、佛さまの願いがこもっている。

 

お互い、身に引き当てて、大悲を聞く。そのような機会になれば、と思っています。

 

南無阿弥陀