むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

摂取不捨の利益

仕事が更に忙しくなってまして、かつ、諸事情で自分のペースで進めることができません。

 

再来月からは恐らく落ち着くと見込んでいます。

 

このブログのタイトルにあるように、僕の人生における課題は、

 

胸に去来するむなしさからどうすれば脱却できるか、

 

言葉を足すならば、

 

生存することに何の意味があるのか、でした。

 

で、今はどうかといいますと、とにかく一所懸命やってます。過去一番忙しいです。意味や価値、そんなものは知らないし、特に興味もない、といえます。

 

更に言語化すると以下のとおりです。

 

むなしさはちっともなくならない。自分の心にあいた穴は、生涯塞がることはないらしい。それをとどまらずきえずたえずという言葉が指し示している。

 

穴があいた存在が自分である、ということ。

 

しかし、穴があいたままで充分である。

 

また、この問題は自分だけの問題かと思っていたが、どうやら、そうでないらしい。

 

このことを指し示した言葉が十方衆生という言葉である。

 

そして、念佛往生には段階があり、念佛一つから仰せ一つに深化せしめられる。

 

称える念佛から、称えさせられる念佛へ。

 

称えさせられる念佛から聞こえて下さる念佛へ。

 

聞即信という言葉があり、これが行き着く処のようである。

 

ほとけさまが決心しておられるならば、それで充分である。

 

その御心は微塵も揺らぎがない、全く躊躇がない。

 

その決心、確信された心が今南無阿弥陀佛の念佛にまで成って聞こえて下さる。

 

 

こういうことであります。

 

僕は、真宗の信者、念佛の行者などというものにはなりとうありません。そんな殊勝なものでないからです。

 

一市民として、ただ生き、力なくいのちを終える、こういう方向を目指します。

 

本当はね、特別に成りたくて仕方がありませんでした。

 

自分に自信がないので、ブランド品を買い、身を飾ったこともあります。高い靴を集めたりもしました。

 

いじめられる痛みを知っているのに、他者を言葉で傷つけてしまったことがあります。ひどいことをしてしまったと、25年あまり経った今も後悔しています。

 

今も競争の最中に身を置いており、会社での役割を果たすために足掻いています。席は限られており、忍耐を求められます。

 

職位が上がらなければ、やれることに限りがあり、今のままでは窮屈なので、上を目指しています。

 

 

全く救われ難い現実と自身です。

 

ただ、帰るべき処が常に伴にある。自分を信じ切って下さり、絶えず喚びづめの大悲がいつも共にまします。

 

 

それが畢竟依であり、我が名を称えよ、汝の後生の全責任はこの弥陀が引き受けるから、お前は念佛して生きてくれ、必ず我が浄土に往生せしめる、というこの口を割って現れて下さるこの一声である。

 

この声を念佛という。

 

この声のほとけさまに助けて頂くばかりで満足でありますし、僕は遊塵として、凡夫として、生涯を過ごしていく、それ以外に特に何もなくて構いません。

 

摂取不捨の利益、すなわち、念佛往生のはたらきの中に今、無有出離之縁の存在のまま、座を与えられている、このことに気づきつつある、そういう毎日を過ごしています。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むなしさは何処から来たるものか

僕の人生における最初の問題は(むなしい)ということでした。

 

この(むなしい)ということを改めて考えると(むなしさに気づいてしまった)といえるかもしれません。

 

他者から見ると、別に不自由なく、いわゆる大切に育てられたのかもしれません。実際、そうなのだと思います。

 

幼い頃というのは、気持ちを言葉にすることができません。故に自分の考えを他者に明瞭に伝えることもできません。

 

故に、むなしい、というのが、ものを欲しがるということになりました。

 

渇く、という感覚でしょうか。物を沢山買ってもらいました。そして、それらをとても雑に扱っていました。いびつな子供であったと自分でも思います。

 

何かで誤魔化さないとしようがないというか。とにかく満たされないのであります。

 

確実に穴が空いている、決定的な何かが足りない、でも、その何かが何なのかがわからないし、どうすればいいのかわからない。

 

まぁ、苦しかったです。戻れといわれたら嫌です。

 

もう少し言語化すると、生活に対する手応えのなさ、意味の分からなさがありました。

 

幼稚園や小学校に入ると、集団生活せざるを得ません。画一的に居らざるを得ない上に、なぜこんなことをしなければならないかわからない。

 

今だったらわかるのです。

 

学ぶことは、自分の選択肢を増やすことに直結している、と。そして、学ぶか学ばないかは自分が選ぶこと、有利な方をその人が選ぶべきこと、と。

 

学ぶことの重要性を認識したので、学び続けて、かつ、学んだことを実際にやってみて、再考、反省しながら、身につき、意識せずそれができるまで繰り返している途中です。

 

ただ、世界は二重構造になっており、日常の下に、存在としての領域が横たわっていて、後者の方がより本質的なのだ、と考えています。

 

なぜなら、自分が意識する以前にこの世に居ったから、です。自分でここにこよう、と、この自分に成ろうと決めた覚えがありません。

 

そして、存在の抱える問題として、煩悩と無常ということがあり、それを正見するのが、釈尊が開顕した仏法だと思います。

 

むなしい、というのは(存在の領域)から起こってくるものであり、自分の心に起こってくるものではあるけれども、自分が起こしたものではない、と思います。

 

故に本質的な領域から届くものである、と考える訳です。

 

南無阿弥陀

 

 

 

課題の変質

更新頻度が落ちておりますが、何とかやっております。

 

Twitterは思いついたことを即座に文字化できるので、ブログを書くための時間が取りにくい昨今、Twitter中心です。

 

さて、最近考えていることを。

 

一所懸命行ずるしかない、ということ。

 

結局は孤独である、ということ。

 

課題が変質してきた、個から場になってきたということ、です。

 

行ずるということについては、他者と自分は心が通わないですし、逆に心を見られるわけにもいかないです。ロクなことを考えていないため、です。

 

ただ、自分が思っていることを表す術が行、即ち行いでありますから、こうしたい、変えたいと思うことを顕在化するために、行ずることを意識して過ごしています。

 

物事を外から見て、いいだの悪いだの批評するのは簡単です。その人に聞きたいのは、では、あなたはこの問題に対し、どう向き合うのですか、ということです。

 

こう尋ねると大抵は黙るのです。問題に切り込む、距離を詰めることが行ずるということだと思っています。

 

孤独であることは解消できません、身がありますから無理です。しかし、孤独なるわれら、という響きがあり、ただそれだけが孤独であることを受け止めさせうるものではないかと思います。

 

課題の変質については、この人間であるという問題を抱えているのは自分だけではないわけで、場、土の問題であろうと思います。

 

浄土とは法蔵菩薩の本願に酬報した世界と聞いております。

 

土徳、即ち阿弥陀仏の浄土に往生すれば土の力用によって自ずから仏に成ってしまうのであります。

 

環境から人間が受ける影響、というものを考えています。自分が所属する組織は人が疲弊しているように観えます。

 

なので、職場で自分の職位でできる環境整備を実施しているところです。

 

些末なこと、予算を取らなければならないこと、色々ありますが、場を整えることは大切なことだと思いますので、諦めずにやってます。

 

失敗もありますし、いい反応ばかりでもありません。色々なひとがいて、色々な認知をもち、色々な言葉を使いますから、想定内です。嫌なストロークをいなすために技術を学んできました。傾聴であり、アサーションであります。

 

技術は偉大であり、自分においては、対人ストレスを緩和させることができました。

 

僕は傍観したくありません。批評家に陥りたくありません。できる範囲において、問題に対峙し、関わります。これを当事するといいます。

 

自分の居り場において、やれることをします。この世界を変えてやるなどとは思いません。しかし、せめて、縁あって所属する場には自分が居たことで変わったことを遺したいです。

 

既にいくつかは完了しています。何十年も続いていた慣習を変えました。もう5年前くらいでしょうか。他にも変えたこと、現在進行形のものもあります。

 

自己主張する必要はありません。足跡を見れば誰でもわかります。ですが、大半のひとは足跡が見えませんし、見ようともしません。

 

それでよいのです。足跡は足跡なので、僕はそこにはいません。先に行きます。行を追求していきます。

 

南無阿弥陀